衣笠城(きぬがさ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 三浦為通 | |
遺構 : 堀、土塁、曲輪跡 | |
交通 : JR横須賀線横須賀駅または 京急本線横須賀中央駅よりバス 「衣笠城址」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 三浦為通によって、康平年間(1058〜65)に築かれたと伝わる。為通は、坂東平氏の一流 村岡(平)忠通の嫡男で、前九年の役の功により源頼義から三浦郷を与えられ、苗字とした とされる。ただし、為通の名は同時代周辺の史料にはみられず、実在を疑問視する声もある。 治承四年(1180)に源頼朝が伊豆で挙兵すると、三浦氏は頼朝を支援した。しかし、合流 する前に石橋山の戦いで頼朝は敗れ、安房国へ落ち延びた。三浦勢も平家方の追撃を受け ながら衣笠城へ集結したが、畠山重忠・河越重頼・江戸重長・中山重実ら数千人に囲まれた。 三浦勢のほとんどは、頼朝と合流すべく城を棄てて海を渡り、衣笠城は翌日攻め落とされた。 このとき、為通の孫とされる89歳の三浦義明が城に残り、重忠らによって討たれた。ちなみに、 畠山はじめ、河越・江戸・中山氏といずれも三浦氏と同じ坂東平氏であり、さらに重忠は義明 の外孫にあたる。その後、頼朝が再起して鎌倉政権を樹立すると、三浦氏は旧領に復帰した。 三浦氏は頼朝挙兵時からの功臣として権勢を振ったが、他方で同じく草創の功臣で執権と なった北条氏との間で軋轢を増していった。宝治元年(1247)、鎌倉を舞台とした宝治合戦が 勃発し、義明の曾孫泰村をはじめとする三浦一族のほとんどが、北条氏に敗れて自害した。 三浦氏の家督は、庶流で北条氏とは縁戚関係にあった佐原盛時が継いだが、衣笠周辺の 所領は取り上げられ、衣笠城も廃城となった。 <手記> 横浜横須賀道路衣笠IC出口前には、衣笠城址と名のついた交差点やバス停がありますが、 そこから西にしばらく登った尾根上が、狭義の衣笠城址です。狭義というのは、衣笠一帯は 複雑な丘陵地帯となっており、最盛期には周辺の支城群とともに鎌倉型の広義の衣笠城を 形成していたと考えられているからです。ただし、この広義の衣笠城は、本家の鎌倉が成立 してから拡張されたものと思われるので、この「大」衣笠城が実戦を経験することはなかった でしょう。 城跡へは、大善寺脇から登ることができます。登り切った先は、尾根筋の緩やかな斜面で、 おそらく主郭と思われますが、削平は不十分です。主郭は、大きく上下2段に分かれており、 上段の岩の上には、城址碑が建てられています。碑や標柱、説明板などは途中にもいくつか あるのですが、ここのものが一番古く立派です。主郭の北辺には、土塁らしき遺構も見受け られます。下段の先端付近には御霊神社が鎮座しており、あるいは出郭であった可能性も 考えられますが、何ともいえません。 主郭上段のさらに西には、物見岩と呼ばれる峰の頂部があります。物見岩と主郭の間は、 明確な堀となっています。その奥もしばらく歩いてみましたが、自然地形が続いており、城域 はこの物見岩で終わっているようです。もっとも、物見岩背後は急峻な崖となっており、とくに 造作がなくても十分要害といえます。 大善寺の一段下には、道路脇に滝不動の跡とされる不動井戸があります。井戸というより は、用水の洗い場のようになっていますが、今もこんこんと水が湧きだしています。三浦氏の 居館は、この井戸の近くにあったものと推測されています。 |
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主郭下段のようす。 | |
主郭上段に建つ城址碑(のなかでもっとも立派なもの)。 |
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主郭北辺の土塁状地形。 | |
物見岩。 | |
物見岩と主郭上段の間の堀。 | |
主郭下段東端付近の御霊神社。 | |
居館跡付近とされる不動井戸。 |