西方院山城(さいほういんざん)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 古市胤仙
 遺構  : 堀、土塁、曲輪、虎口、土橋
 交通  : 近鉄奈良線近鉄奈良駅徒歩15分


       <沿革>
           嘉吉三年(1443)、興福寺大乗院門跡経覚と興福寺衆徒の成身院光宣・筒井順永兄弟は
          摂津河上五ヶ関の代官職を巡って対立した。『経覚私要鈔』によれば、翌文安元年(1444)
          一月に経覚派の古市胤仙が鬼薗山への築城を計画したが、大乗院の境内であることから
          難航が予想されたため、先に隣の西方院山での工事を開始した。しかし、途中で鬼薗山城
          の普請が可能となったため、西方院山城は未完成のまま放置された。
           文明十一年(1579)一月、古市澄胤は今度は鬼薗山城ではなく西方院山城を取り立て、
          改修工事を開始した。『大乗院寺社雑事記』には「天満ヨリ西堀二重在之 古堀也 加修理
          而サラエ畢」とあり、文安元年時点で既に二重堀が構築されていたことが分かる。城は九月
          二十九日に完成したとされるが、そのわずか3日後の十月二日に、筒井方に攻められ自焼
          している。以後、記録にはみられずそのまま廃城となったものとみられる。


       <手記>
           瑜伽神社のすぐ裏手の丘が城跡ですが、残念ながら境内からは登れません。鬼薗山城
          の跡に建つ奈良ホテルのゲート向かいにある駐車場脇の峰先から、ガサゴソと登って辿り
          着くことができます。ゲートにはホテルの警備員の方がいて、どうしても視線は気になります
          が、そこはえいやと腹をくくって、何食わぬ顔でささっと分け入りましょう笑
           直登ではありますが険しい山ではないので、さほどの苦も無く主郭西の曲輪に至ります。
          主郭との間にはしっかりとした堀切があり、土橋および主郭の虎口も確認できます。土橋と
          虎口については、当時の遺構であるという断言まではできませんが、畑地など後世に転用
          されたようすは見られないので、城の造作とみてよいものと思います。
           主郭は西辺に土塁が残り、北辺には腰曲輪や虎口跡のような地形も認められます。城内
          最大の見どころは、なんといっても主郭東辺の二重堀切でしょう。はっきりくっきりしっかりと
          残っていて、眼福というほかありません。さらに、応仁の乱以前の1444年に構築されたこと
          が記録に明記されているというのも大きなポイントでしょう。そんな古い時代に二重堀切が
          存在していたというのも、私には大きな驚きです。知らなければ、おそらく16世紀半ば以降
          ぐらいの遺構だと捉えていたと思います。
           堀切の南東隅には虎口が開かれていて、その東にはごく浅い堀底道があるものの、城の
          造作なのかどうかは分かりません。どちらにせよ、城域の東端は二重堀とみて問題ないで
          しょう。
           奈良の市街地に、これほどの遺構が明瞭に埋もれているとは、にわかには信じられない
          くらいの感動を覚える城跡でした。

 登り途中の腰曲輪跡。
主郭西側の曲輪。 
 主郭西辺の堀切。
堀切に伴う土橋。 
 主郭西辺の虎口。
主郭のようす。 
 主郭西辺の土塁。
主郭北辺の腰曲輪跡。 
 主郭北辺の虎口状地形。
主郭東辺の二重堀切。 
 同上。
堀底のようす。 
 二重堀切南端の虎口跡。
二重堀切東方の堀底道。 
 主郭南側中腹の瑜伽神社。
 ここからは登れません。
荒池脇から城山を見上げる。 


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