切畑城(きりはた)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 畑氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : 新名神自動車道菰野ICから車で15分


       <沿革>
           『三国地誌』によれば、城主は畑与九郎とされる。また、『伊勢名勝志』には畑定政が居城し、
          天正五年(1577)に織田信長によって滅ぼされたとある。畑氏の出自や、与九郎と定政の関係
          など詳細は不明である。


       <手記>
           切畑城は田光川の上流、切畑集落背後の山上にありました。『日本城郭大系』に「この地方
          での山城は少ない」とある通り、北西では珍しく奥深い高所に位置している城です。南側下に
          岐留太神社があり、ここに駐車できます。そこからは城の下をぐるっと回って城内を抜ける山道
          があるので、これを辿るか山肌を登る踏み分け道を上がれば城内に至ります。この山道は城域
          でオフロードになり、かつてはさらに上手に広大な開拓地があったようですが、今も使用されて
          いるのかは怪しい感じです。
           城内には、土塁と喰い違い状の虎口が残っています。背後は自然の谷戸地形を堀としている
          ようで、明確な空堀遺構はみられません。道路を挟んで比枝神社と彫られた石柱が建ち、以前
          は社殿と境内があったようで、ここも曲輪とみられます。また、『大系』によると北東にももう1つ
          曲輪が延びているようですが、行きそびれてしまいました。
           畑氏の詳細は不明ですが、田光川沿いには近江と伊勢を結ぶ八風街道が通じており、この
          往来を掌握して生計を立てていたものと推測されます。天正五年に滅ぼされたとすると、時期的
          に「なぜ?」という疑問が湧きますが、前年十一月に三瀬の変で信長の次男・信雄の入嗣先で
          ある北畠氏の一族が粛清されています。天正五年春には殺害された旧当主・北畠具教の弟に
          あたる北畠具親が伊勢で反乱を起こしており、その関連で排斥された可能性はあるでしょう。
          八風街道は信長自身が上洛の帰路で通ったことのある重要な幹線道路であるため、目を付け
          られてしまったのかもしれません。

           
 訪城スタート地点の岐留太神社。 
主郭の土塁。 
 同上。
郭内のようす。 
 土塁を外側から。
背後下から主郭土塁を見上げる。 
 喰い違い状虎口。
比枝神社石柱。 


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