岸和田古城(きしわだこ)
 別称  : 和田氏城、岸の城
 分類  : 平城
 築城者: 不詳
 遺構  : なし
 交通  : 南海電鉄岸和田駅徒歩5分


       <沿革>
           岸和田周辺は、かつては「岸」と呼ばれていたが、建武年間(1334〜36)に楠木正成の甥
          和田高家がこの地に封じられ、「岸の和田」から岸和田の地名が生まれたとする伝承が広く
          流布している。岸和田城は、高家が築いた「岸の城」がはじまりといわれ、高家の子正家の
          ときに岸和田を離れたとされる。しかし、この伝承は江戸時代以降の文献にしかみられず、
          今日では否定する向きが強い。そもそも、和田高家の「和田」姓は「わだ」ではなく「にぎた」
          ないし「みきた」と読むといわれる。
           『泉邦四県石高』によれば、天授四/永和四年(1378)に和泉守護となった山名氏清に
          よって、和田氏一族の信濃泰義が岸和田城主となったとされる。泰義の子泰連は和田氏を
          称し、その子義明は岸和田氏を名乗ったとある。ただし、『石高』も元禄年間(1688〜1704)
          の成立とされているため、信憑性に疑問がもたれる。
           応永十五年(1408)、細川頼之の甥頼長が和泉守護となり、岸和田城に入った。岸和田
          古城は、遅くともこのときまでには築かれていたものと推測される。明応九年(1500)、畠山
          尚順によって岸和田城が攻め落とされ、城主細川元有は討ち死にした。代わって、守護代
          松浦盛が城主となったとされる。
           岸和田古城から今日の岸和田城への移転は、一般的に信濃氏ないし松浦氏の時代に
          行われたと考えられている。松浦氏は、16世紀中ごろに三好氏が勢力を伸ばすとこれに
          従った。永禄三年(1560)に三好実休(義賢、之虎)が岸和田城を改修し、弟の安宅冬康・
          十河一存の率いる四国勢を城に収容している。この城については、今の岸和田城二の丸
          を中心とするものと考えられており、このときまでには移転が完了していたものとみられる。
          その後の古城については不明である。


       <手記>
           岸和田駅南東にあたる野田町2丁目の住宅街の一角に、「和田氏居城傳説地」の石碑と
          説明板が立っています。周辺は「照日山」と呼ばれる高まりになっていたそうですが、現在
          では市街地化によって高低差はよくわかりません。遺構も見られませんが、開発に先立つ
          発掘調査で、江戸時代に描かれた古城絵図と一致する遺物が検出されたそうです。
           絵図によれば、池沼ないし湿地帯に浮かぶように大きく3つの曲輪がそれぞれ独立して
          並んでいて、真ん中が本丸、東が二の丸と呼ばれていたそうです。東端は、岸城中学校
          北辺付近と推測されています。
           岸和田古城は、いつごろ築かれいつごろ移転したのかが焦点となっています。発掘調査
          の結果からは、その存在期間は15世紀後半から16世紀初頭と推測されています。私見と
          しては、細川頼長によって築かれ、三好氏によって完全に移転・廃城されたものと考えて
          います。今日の岸和田城は海岸線に近く、この距離での移転にメリットがあるのは、やはり
          四国との海運を通じた連絡を必要とした三好氏であろうと思われるからです。

           
 和田氏居城傳説地碑と説明板。
古城址西端付近のようす。 
 東端付近を望む。


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