岸和田城(きしわだ)
 別称  : 蟄(千)亀利城、滕城、猪伏山城
 分類  : 平城
 築城者: 細川和泉守か
 遺構  : 曲輪、石垣、堀
 交通  : 南海電鉄岸和田駅徒歩15分


       <沿革>
           もともと、岸和田駅南東に岸和田古城があり、現在の岸和田城はこれを廃して新たに築いた
          ものとされる。しかし、詳しい移転時期については明らかでない。岸和田城が歴史に登場する
          のは、和泉守護細川氏の城としてであり、同氏は応永十五年(1408)に細川頼長が和泉半国
          守護に任じられたことにはじまる。明応九年(1500)には、細川元有が畠山尚順に攻められ、
          岸和田城で討ち死にしている。
           細川氏に代わり、守護代松浦氏が岸和田城主となったとされる。江戸時代末期に成立した
          『伽李素免独語』には、「松浦肥前」が今の場所に城を新たに築き、それまでの古城を「もと
          やしき」と呼んだとする記述があるが、確証はない。16世紀中ごろに入って三好氏の勢力が
          伸長すると、松浦肥前守守もこれに従った。
           永禄三年(1560)、三好長慶の弟実休(義賢・之虎)が岸和田城を改修し、これに同じく長慶
          実弟の十河一存や安宅冬康ら四国の軍勢2800人ほどを収容した。海を隔てた四国との連絡
          拠点として、岸和田城が重要視されたものと考えられる。現在の二の丸西隅の石垣内側から、
          より古い石垣の痕跡が見つかっており、少なくとも実休が改修した岸和田城は移転後の新城
          であり、その中心はより海岸線に近い二の丸にあったものと推測されている。
           永禄五年(1562)、実休は久米田の戦いで討ち死にし、岸和田城は畠山高政の手に落ちた。
          高政は細川刑部大輔を城主としたが、同年の教興寺の戦いで三好勢に敗れると、三好氏が
          岸和田城を回復した。城主には松浦肥前守光(信輝)が返り咲き、同十一年(1568)の織田
          信長の上洛後は織田氏に属した。
           天正三年(1575)には、松浦家臣寺田又右衛門・安大夫兄弟が岸和田城主となった。松浦
          家中における下剋上といわれているが、その経緯は明らかでない。信輝は寺田兄弟によって
          殺害されたといわれ、安大夫は名を松浦宗清と改めた。同五年(1577)の紀州攻めの後は、
          織田信張が岸和田城に入った。
           天正十年(1582)の本能寺の変に際し、紀州雑賀党の有力者で親信長派であった鈴木孫一
          (雑賀孫市)が、後難を避けて岸和田城へ亡命した。信張は尾張小田井城へ退き、蜂屋頼隆
          が岸和田城に留まって国内騒擾の鎮圧にあたったといわれる。翌十一年(1583)には、羽柴
          秀吉の家臣中村一氏が岸和田城主に任じられた。
           翌天正十二年(1584)、小牧・長久手の戦いに呼応して紀州勢が岸和田城へ攻め寄せた。
          紀州勢の兵力は1万弱〜3万と諸説あり、これに対する籠城兵は6千〜8千人ほどであったと
          される。岸和田合戦と呼ばれるこの戦いで、籠城方は防衛に成功している。翌十三年(1585)、
          秀吉は岸和田城を拠点として、本格的な紀州平定に乗り出した。同年、一氏は水口岡山城
          6万石へ加増転封となり、代わって秀吉の義叔父にあたる小出秀政が岸和田に封じられた。
          岸和田城は秀政によって大改修を受け、5層の天守が上げられたといわれる。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、秀政と嫡子吉政は西軍についたが、次男秀家が東軍
          に属して戦ったため、その功により戦後所領を安堵された。同九年(1604)に秀政が死去する
          と、吉政が岸和田城を継いだが、父とは別に出石城主として所領をもっていたことから、出石
          領は吉政の子吉英が継承した。同十八年(1613)に吉政も世を去ると、吉英が岸和田城主を
          継ぎ、出石領は弟の吉親が継いだ。翌年の大坂冬の陣に際しては、松平信吉も城主に加え
          られている。この附城主は、後に北条氏重に替えられた。
           元和五年(1619)、氏重は久野藩へ、吉英は出石藩へ転封となり、吉親は園部藩主へ転出
          した。岸和田藩には、丹波篠山から松井松平康重が5万石で入封した。同九年(1623)には、
          二の丸に伏見城の櫓が移築されている(伏見櫓)。康重の子康映は、寛永十七年(1640)に
          播磨山崎藩へ転封となった。松平氏2代の間に、岸和田城には総構えなどが設けられ、近世
          城郭の体裁が整えられた。この普請には、幕府より須田次郎太郎・三好備中守が奉行として
          派遣されており、岸和田城が紀州に対する押さえとして重要視されていたことがうかがえる。
           松平氏の後は岡部宣勝が6万石で入り、岡部氏が13代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           岸和田といえばだんじり祭りで有名ですが、岸和田城周辺は祭りの喧騒とは一線を画して
          いるようにみえます。岸和田駅と城下町が、いくらか離れているからかもしれません。城への
          距離は蛸地蔵駅の方が近いのですが、アクセスとしては特急など全種が停車する岸和田駅
          の方が最寄りといえると思います。
           岸和田城には3層の模擬天守が乗っていて、最近リニューアルしたのか破風の金具などが
          きらびやかです。とはいえ、上述のとおりかつての天守は5層でしたので、5層用の天守台に
          3層の天守が乗っているというのは、なんとも違和感があります。天守内部は資料館となって
          いて、最上階からは、周囲に高層建築もないので360度のパノラマが広がります。模擬天守
          以上に残念なのは、天守閣建設に際して天守台石垣を積み直したようで、時代も時代です
          から、その積み方がかなり雑なのがパッと見でわかってしまうことです。
           ともあれ、本丸の石垣と堀がほぼ完全に残っているのは大きな魅力です。私が訪れたとき
          には、補修工事のためか濠の水が抜かれていて、ついでに石垣の調査がなされているよう
          でした。
           二の丸は、初期岸和田城の本丸といわれていますが、今日の本丸との高低差はそれほど
          ありません。ただ、海側の城下町から見ると明らかに数段高く、猪伏山と呼ばれたころの名残
          は感じられます。
           二の丸から大通りを挟んだ反対側には旧紀州街道が走り、城下町でもあり宿場町でもある
          街道沿いの町屋がいまも風情よく残っています。旧紀州街道からさらに1本北側の通りには、
          海岸の城ならではの防潮石垣の一部が残っています。
           別称の「ちきり(千亀利・蟄亀利・滕)城」は、内堀の中に土橋でつながれた本丸と二の丸が
          並立しているさまを、織機の糸を巻く「ちきり」という道具になぞらえたものといわれています。
          雅称にしてはユーモラスで面白いように思いました。

           
 本丸石垣と模擬天守を望む。
模擬天守近望。 
 模擬天守からの眺望。
本丸裏手。水の手か。 
 本丸南西模擬隅櫓付近。
 右下には犬走りがみられます。
 二の丸の濠と石垣。 
 二の丸伏見櫓跡。
城下の防潮石垣。 
 おまけ:城下の旧紀州街道沿いの街並み。


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