清武城(きよたけ)
 別称  : 清滝城
 分類  : 山城
 築城者: 清滝氏
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : JR日豊本線清武駅徒歩20分


       <沿革>
           清武城ははじめ清滝城と称し、伊東氏支族の清滝氏によって築かれたとされる。清滝氏が
          いつごろ伊東氏から分かれたのかは詳らかでない。
           天授年間(1375〜81)に、清滝城は清滝祐行によって拡張され、このときに清滝から清武
          へ改められたと伝わる。祐行は、一説には伊東祐重の弟で、『日向記』によれば祐行の跡目
          の清武越後守祐恩(祐行の子か)に祐重の娘を娶らせたとされる。祐恩の死後、その弟祐憲
          が跡を継いだ。
           文明十七年(1485)、飫肥城攻めのため出陣した祐重の曾孫祐堯は、滞陣先の清武城で
          病没した。このときの清武城主は祐堯の二男祐邑であったともいわれる。この戦いで祐堯の
          嫡男祐国は戦死し、祐国の子尹祐が跡を継いだが、幼少であったため家中に混乱をきたし、
          祐邑は翌十八年(1486)に日知屋城で暗殺された。
           永禄十一年(1568)、伊東義祐が悲願の飫肥城攻略を成し遂げ、伊東四十八城体制を布く
          と、清武城はその1つに数えられた。このころの城主は、長倉伴九郎および上別府宮内少輔
          であったとされる。両名とも元亀元年(1572)の木崎原の戦いで討ち死にしたが、その後の
          城主については不詳である。
           天正五年(1577)に義祐ら一族郎党が島津氏に敗れて豊後へ落ち延びると、伊集院久宣
          が清武城主となった。同十五年(1587)に豊臣秀吉によって九州が平定されると、義祐の子
          祐兵が飫肥城周辺の旧領を回復し、清武城には祐兵の外祖父川崎祐長(義祐の岳父)が
          入った。しかし、慶長三年(1598)に祐兵の寵臣稲津掃部助重政の讒言により、清武城主は
          重政に替えられた。
           慶長五年(1600)に祐兵が死去し、その子祐慶が跡を継ぐと、重政の立場は微妙なものと
          なった。同年の関ヶ原の戦いで、重政の指揮のもと伊東軍は高橋元種の宮崎城を攻めたが、
          元種はその時点で東軍に寝返っていたことから、戦後宮崎城は高橋家に返還された。この
          出来事も、重政が伊東家中で孤立する要因となった。直接の原因は諸説あるが、追いつめ
          られた重政は、慶長七年(1602)に手勢を集めて清武城に立て籠もった。城はまもなく飫肥
          藩兵によって攻め落とされ、重政は誅殺された(稲津の乱)。
           祐長が清武城主に返り咲いたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。


       <手記>
           清武城は、清武川に面した河岸の丘陵に築かれた城です。かなり広い城域をもつ城です
          が、現在の遺構は稲津氏時代の中世と近世の狭間のものであることに留意する必要があり
          ます。清武は、今も高速道路や宮崎と都城を結ぶ国道が並んで通過する交通の要衝であり、
          かつての街道はおそらく清武城のすぐ脇を走っていたのでしょう。
           主城域は、上の地図の標高が記されている丘で、一帯は住宅地や農地となっています。
          ただ、放棄されて荒れている部分も多く、主郭も其の1つです。立派な石碑と説明板が設置
          されているものの、郭内は下草の生い茂る野っぱらとなっており、マネキンの生首を乗せた
          晒し首のような案山子の残骸が、生々しく立っていました。宅地となっている主郭の周辺を
          歩いてみると、ちらほらと土塁跡のような箇所が見受けられます。全部が全部そうとはいえ
          ないでしょうが、明らかに生活道路や家屋を建てるのには必要ないとみられるものは、遺構
          と考えてよいのではないかと思います。
           主郭の丘の南にも城域は広がっていたようですが、宮崎自動車道が走っているため遺構
          は残っていません。道路建設に先立つ発掘調査で、焼けた石垣や建物跡などが検出され
          たそうです。
           主郭のひとつ北の藪化しているピークは中山寺跡と呼ばれ、寺院を配した支城であったと
          推測されています。中山寺から道路を挟んだ北西には、伊東祐堯の墓があります。ここは、
          能登尾山と呼ばれています。この峰の中央には堀底道があり、頂上が東西に分断されて
          います。『日本城郭大系』で、祐堯の墓は「能登尾山の西」にあると書かれているのはその
          ためかと思われます。能登尾山の周囲には、土塁や竪堀跡と思しき箇所が見られます。
           中山寺から北東に細長く延びる尾根の先端には、稲津重政の墓があります。おそらくここ
          が清武城の東端と思われます。尾根筋には堀切があり、東側の斜面には竪土塁のような
          直線状の盛り上がりが3ヶ所ほど見受けられます。
           
 本丸の城址碑。
本丸のようす。 
 土塁跡か。
中山寺と能登尾山の間の道路。 
かつての堀底道を切通したものか。 
 能登尾山の伊東祐堯墓。
祐堯墓脇の土塁。 
 能登尾山を貫通する堀底道の出口。
堀底道脇の土塁。 
 能登尾山斜面の竪堀跡か。
稲津重政墓。 
 重政墓のある尾根筋の堀切。
重政墓の尾根斜面の竪土塁状の土盛り。 
 同上。


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