飫肥城(おび)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 土持氏か
 遺構  : 曲輪、石垣、堀、切岸
 交通  : JR日南線飫肥駅徒歩15分


       <沿革>
           『延陵世鑑』によれば、正平十七/康安二年(1362)に飫肥城で立て籠もりがあり、土持頼宣
          が正平二十四/応安二年(1369)に城を攻め落としたとある。土持氏は、平安時代末ごろより
          日向に勢力を持ち、蟠踞した一族で、頼宣は宗家である縣土持氏の土持栄宣の子とされる。
          南北朝の騒乱や観応の擾乱において、土持氏は尊氏方として戦った。したがって、上記の飫肥
          城立て籠もりは、南朝勢力によるものと推測されるが、もともと土持氏が築いた城であったのか
          否かによって、その経緯に差異が生じる。
           『日向記』によれば、長禄二年(1458)に、島津忠国が一族の新納忠続を飫肥城主に任じたと
          ある。この間の経緯は詳らかでないが、16世紀に入り、日向南部では伊東氏の勢力が拡大して
          いた。この前年の同元年(1457)には、伊東祐堯が土持氏の有力分家である財部土持氏を攻め
          滅ぼしている。飫肥土持氏は伊東氏に従ったとされるが、いずれの時点で飫肥城が島津氏の手
          に落ちたのかは不明である。
           文明十六年(1484)、新納氏と対立した忠国の三男久逸(伊作島津家当主)は、祐堯に支援を
          求めた。祐堯はこれに応じて飫肥城を包囲し、城方の援軍島津豊久を討ち取る戦果を挙げた。
          しかし、肝心の久逸が敗れたため、祐堯は一旦囲みを解いたが、滞陣先の清武城で病死した。
          翌十七年(1485)、祐堯の子祐国は再び久逸を擁して飫肥城を攻めたが、島津宗家の島津忠昌
          の援軍に敗れて戦死した。久逸も降伏したため、伊東氏は島津氏の内紛に介入するという名分
          を失ったものの、忠昌は祐国の跡を継いだ尹祐の報復を恐れ、明応四年(1495)に和議を結んだ。
          これにより、飫肥城主は忠続から豊州家の島津忠廉に代えられ、伊東氏は飫肥を諦める代わり
          に三俣院に1000町の領地を得た。
           尹祐の次代の祐充のころから、再び伊東氏は島津氏と争うようになった。祐充の弟義祐の代に
          入ると、いよいよ飫肥城への攻勢が本格化した。義祐は、永禄五年(1562)に一度は飫肥城を
          攻略したものの、まもなく島津氏に奪い返されている。同十一年(1568)には、義祐は2万といわ
          れる大軍を率いて飫肥城を囲んだ。この戦いは第九飫肥役と呼ばれ、その名の通り通算9度目
          の伊東氏による飫肥城攻めとされる。これに対し、島津氏は1万3千とする援軍を送ったが、野戦
          で敗北し、兵糧の尽きた飫肥城は開城した。悲願である飫肥奪取を成し遂げた義祐は、飫肥城
          に三男祐兵を配し、いわゆる「伊東四十八城」制を布き、伊東氏の最盛期を迎えた。
           しかし、元亀元年(1572)の加久藤城の攻略失敗とそれに続く木崎原の戦いの敗北を機に、
          伊東氏は衰退の一途をたどった。天正五年には、飫肥城も島津軍に囲まれ、祐兵は城を棄てて
          佐土原城へ退いた。飫肥城主には上原長門守尚近が任じられた。
           義祐・祐兵ら伊東家一族郎党は大友氏を頼って落ち延び、祐兵はその後羽柴秀吉に仕えた。
          天正十五年(1587)の秀吉による九州平定に際し、祐兵は道案内を務め、その功により飫肥城
          3万6千石を回復した。だが、祐兵が城の受け取りに出向くと尚近は激しく抵抗し、翌年になって
          ようやく祐兵は入城することができた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、伊東家は東軍に属して戦ったため、5万7千石の領有を
          認められた。貞享元年(1684)には、大地震により城の主要部に甚大な被害が出たたため、同
          三年(1686)から8年の歳月をかけて大改修が行われた。これにより、丘陵を巨大な堀によって
          独立した曲輪に細かく分断した、南九州型と呼ばれる中世的な縄張りから、本丸や中の丸、
          今城、松尾の丸を結合させることで、飫肥城は御殿様式の近代城郭化へと変貌した。
           飫肥藩は、伊東家14代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           飫肥は酒谷川の中流に位置し、飫肥の東で酒谷川は飛ヶ峰川と合流します。飫肥城は酒谷
          川の屈曲部に臨む丘陵の先端付近にあり、城下町とセットで1つの城塞都市をなしています。
          飫肥城はもともと典型的な南九州型と呼ばれるタイプの城で、上の地図でも分かる通り、お椀
          を伏せたような独立した小丘がそれぞれ曲輪として並んでいました。同じタイプでよく知られた
          ものに、都於郡城や薩摩の知覧城などがあります。ですが、飫肥城の場合は江戸時代に本丸
          周辺を近世城郭様式に改めたたため、一般に飫肥城址と認識されている一帯には、南九州型
          の面影はありません。中世のまま残された本丸背後の曲輪群は、時代とともに使われなくなり、
          放置されたものと思われます。
           当時の建物は残っていませんが、大手門や本丸北門、松尾の丸御殿などが木造で復元され
          ています。復元年は昭和五十四年(1979)ということですが、当時のトレンドを考えるとよく鉄筋
          コンクリートではなく、木造で忠実に再建されたものだと感心します。背景には、飫肥が飫肥杉
          で知られる林業の町であるということもあるように思われます。とくに大手門は、再築から30年
          以上が経ち、はやくも古城の風格すら漂わせています。
           飫肥城は、大地震後の改修を経て本丸が移動しており、地震までの本丸を「旧本丸」として
          区別することもあります。新しい本丸跡には、現在飫肥小学校が建っています。旧本丸に登る
          と、そこは一面の飫肥杉と緑色に光る苔の世界で、何ともいえない癒しの空間となっています。
           本丸背後の曲輪群は、藪化していたり農地や宅地になっていたりで、あまり雰囲気を感じる
          ことはできません。ただ、本丸北東の飫肥中学校となっている宮藪城址や、田ノ上八幡神社が
          鎮座する八幡城址といった曲輪には、切岸など中世城郭の面影が残っています。とくに、城と
          関係はありませんが、八幡神社の大クスノキは「どうやって立ってるの?」と聞きたくなるような、
          曲輪の斜面からせり出した大木で思わず見入ってしまいます。
           飫肥城下には、武家屋敷や明治期の伊東家の居宅(豫章館)をはじめ、小村寿太郎の生家
          や藩校振徳堂、商人屋敷など多彩な歴史的建造物が残っており、九州の小京都の名は伊達
          ではないと感服しました。

           
 復元大手門。
堀越しに大手門を望む。 
 本丸南東隅櫓跡。
本丸南辺の虎口。 
 本丸西辺の虎口。
旧本丸の桝形虎口。 
 旧本丸のようす。
旧本丸裏手の本丸北門(復元)。 
 松尾の丸御殿(復元)。
本丸東側の空堀。 
 本丸南側の空堀。
宮藪城(飫肥中学校)の切岸。 
 八幡城址(田ノ上八幡神社)。


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