香宗我部城(こうそかべ)
 別称  : 香宗城、香宗我部土居
 分類  : 平城
 築城者: 中原秋家ないし秋通
 遺構  : 土塁
 交通  : 土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線のいち駅よりバス
       「下地」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           甲斐源氏武田信義の嫡男一条忠頼の家臣中原秋家は、建久四年(1193)に香美郡宗我郷と
          深淵郷の地頭に任じられた。秋家の主君忠頼が源頼朝の命により暗殺されると、秋家は忠頼の
          子秋通を養子として迎え入れた。秋通は、秋家から地頭職を譲り受けて香宗我部氏を名乗り、
          秋家は香美郡山田に移って山田氏を称した。このころに、香宗我部城の前身となる城館が築か
          れたものと思われる。
           香宗我部氏は秀頼の代に足利尊氏に従い、長宗我部信能とともに長岡郡介良荘での狼藉を
          鎮圧したり、南北朝の動乱期に勢力を物部荘まで広げたりした。
           しかし戦国時代に入ると、東では安芸氏が、西では長宗我部氏が伸張し、香宗我部氏は両氏
          の間で対応に苦慮することになった。大永六年(1526)、香宗我部親秀と安芸備前守の合戦で
          親秀の嫡男秀義が戦死した。親秀は弟の秀通を後継者とし、香宗我部城の北屋敷に隠棲した。
          ところが安芸氏を警戒した親秀は、西の長宗我部国親の三男親泰を養子に迎え、当主に据え
          ようと画策した。秀通はこれに反対したが、弘治二年(1556)に親秀によって謀殺された。
           親泰は、兄である長宗我部元親を助け、永禄十二年(1569)に安芸氏が滅亡すると安芸城主
          に任じられた。その後、長宗我部氏は一度は四国を制覇したものの、天正十三年(1585)には
          羽柴秀吉に攻め入られて降伏し、土佐一国を安堵された。この間の香宗我部城主については
          不詳である。
           文禄元年(1592)にはじまる朝鮮出兵の最中に親泰・親氏父子が相次いで陣没すると、親泰
          の次男貞親が跡を継いだ。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより長宗我部氏が改易されると、
          貞親は土佐を出て他国へ仕官したといわれる。これにより、香宗我部城は廃城となった。


       <手記>
           香宗我部城は、香宗川流域に広がる平野のほぼ中心に位置しています。川が西にカーブを
          描く先端付近にあり、地形的にはドイツのケルンのミニチュア版のような感じです。川に面した
          東側以外の三方に土塁と濠を配した、土居構えの城館です。
           現在は、地図上に点で示した主城域北東端の土塁が残っているのみです。石碑に案内板に
          八幡社と、ひと通り城跡らしく整えられていますが、土塁の一部というより小山に近く、元親の
          片腕でもあった親泰の居城跡としては、少々寂しい感じがしました。

           
 土塁と石碑。
土塁を南方から。 


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