狛江入道館(こまえにゅうどう)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 狛江入道か
 遺構  : 堀跡
 交通  : 京王線柴崎駅徒歩20分


       <沿革>
           西党庶流狛江入道の居館跡と伝わる。狛江氏は、西党の有力分家由井宗弘の次男二郎
          にはじまるとされるが、詳しい系譜は明らかでない。狛江入道増西(道西)は、承元二年(12
          08)に武蔵国威光寺の寺領に狼藉をはたらいたとして、『吾妻鏡』に記録がある人物である。
           他方、館跡南西中腹にある「里の稲荷」は、佐須村名主温井三郎左衛門の先祖とされる
          佐須豊後が建造したものと伝えられる。佐須豊後は、村の鎮守虎狛神社の謝辞であったと
          されるが、出自など詳細は不明である。

       <手記>
           館跡一帯は、現在晃華学園の敷地となっています。かつては、学園の母体であるマリア
          修道会の敷地内に堀跡が残っていたそうですが、今ではすっかり失われているようです。
          「里の稲荷」は現存しており、その西側の切通し道は、館の西辺の堀跡を利用したものと
          されています。郭内については、いかんせん晃華学園は女子校なので、立ち入りはおろか
          周辺をふらつくだけでも神経を使います(笑)。
           河岸段丘を利用した典型的な崖端の城館で、『日本城郭大系』ではかつての遺構の規模
          から戦国時代末期まで使用されていた可能性を示唆しています。可能性は十分にあるで
          しょうが、いかんせん推測の域をでるものではありません。
           ちなみに、館の東、現在の西つつじヶ丘のあたりに、かつて金子という地名があり、今の
          京王線つつじヶ丘駅は、昔は金子駅といったそうです。一説には、村山党金子氏の一族が
          移り住んだことから付いた地名だとされ、あるいは武蔵七党間で周辺の領有をめぐる争い
          があったのかもしれないと、想像をたくましくしてしまいました。

           
 館跡を見上げる。
里の稲荷。 


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