駒井城(こまい) 付駒井沢城(こまいざわ) |
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別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 駒井高郷か | |
遺構 : 土塁跡、堀跡 | |
交通 : JR東海道本線草津駅よりバス 「集町西」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 六角佐々木氏庶流駒井氏の居城である。駒井氏は、六角満高の次男高郷にはじまる。高郷は、 応永元年(1394)に近江国駒井荘を与えられたとされ、駒井城もこのときに築かれたものと推測 される。現地の駒井氏発祥ノ地碑には「応永の乱の功により」とあるが、応永の乱は同六年(13 99)のことであるため、時系列的な矛盾が生じる。 駒井氏はその後、草津や矢橋の代官、大津の奉行などを務め、主に六角氏領内の水運を担う 要職を歴任した。 永禄十一年(1568)に織田信長が上洛の軍を起こすと、駒井氏にも転機が訪れるが、このころ の駒井氏の事績には混乱がみられる。『日本城郭大系』によれば、翌十二年(1569)に駒井城 は信長によって攻め落とされ、このときの城主は駒井兵庫介秀国であったとされる。また、集町 の正三神社の縁起によれば、元亀元年(1570)に焼失した「宮殿(社殿か)」を駒井伊賀守永秀 が翌年に再建したと伝わる。これら秀国や永秀については、その実在や系譜上の位置は明らか でない。 史料上に明確に現れるのは、駒井美作守秀勝・中務少輔重勝父子である。とくに重勝は、後に 豊臣秀吉に召し出され、大津奉行や草津・矢橋代官といったかつての駒井氏の拝職を歴任した。 重勝は豊後国に2万5千石を領するまでに出世したが、関ヶ原の戦いで西軍に属し改易された。 駒井城の廃城時期は明らかでないが、早ければ永禄十二年の落城時、遅くとも重勝が豊後へ 加増転封されるまでの間と推測される。 <手記> 駒井城は、葉山川の支流中ノ井川が2度鉤手に折れる集町の集落内にあったとされています。 ただし、駒井氏の活躍に比して、駒井城の詳しい位置や規模などについてはほとんど明らかとは なっていません。 集落の北端に建分明神社があり、その脇に駒井氏発祥の地碑があります(上の地図の緑点)。 城址碑ではありませんが、駒井城について記された唯一の碑です。滋賀県安土城郭調査研究所 発行の『淡海の城』には明神社の裏手に藪があり、土塁の痕跡と推測しています。近年、明神社 周辺は綺麗に整備しなおされたようで、『淡海の城』にいう「藪」というほどのものはありません。 ただ、明神社は集落北側に広がる水田地帯に突き出した格好の場所で、南を除く三方は、明らか に水田より一段高くなっています。おそらく、かつてここは城の北端の物見台であり、土塁を隔てて 周囲は泥田か湿地帯だったものと考えられます。 草津市の遺跡地図では、正三神社の南側一帯を駒井城址としています。その南を流れる中ノ井 川は、2度も不自然な鉤手に折れている時点でおそらく城の堀の役目も兼ねた遺構であり、城の 南限であったことが推測されます。 また草津市遺跡地図では、建分明神社から水田地帯を挟んだ東側を駒井沢城址としています。 駒井沢城址について詳細は不明ですが、存在したとすれば駒井城の出城か支城であったものと 考えられます。駒井沢城比定地に建つ三蓮寺は、やはり水田地帯に突き出た格好の場所である とともに、水田地帯に対してはもちろんのこと、地続きの東側に対しても一段高く、おそらく近隣で 最も高い場所であったものと思われます。ここに出城(というより出丸に近い感じですが)があった としても、不思議ではありません。 |
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建分明神社脇の駒井氏発祥ノ地碑。 | |
建分明神社。 | |
駒井沢城址に建つ三蓮寺。 | |
駒井城と駒井沢城の間の水田地帯。 |