堀ノ内城(ほりのうち)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 布下氏か
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : しなの鉄道・JR小海線小諸駅よりバス
       「諏訪山口」バス停下車徒歩30分

       <沿革>
           『長野県町村誌』では、諏訪刑部左衛門頼角の居城としている。ただし、この諏訪
          頼角なる人物については不明である。
           布下氏の詰城とする説もあり、『日本城郭大系』では天文〜永禄年間(1532〜70)
          に布下仁兵衛雅朝が居住したとしている。布下氏は、隣接する楽巌寺城主楽巌寺
          雅方とともに、武田晴信の北信侵攻に抵抗した在地領主である。天文二十二年(15
          53)に村上義清が越後の長尾景虎を頼って落ち延びると、雅朝と雅方は晴信に臣従
          したとされる。


       <手記>
           堀ノ内城は、千曲川に削られた諏訪山台地の断崖の一角、布引観音のひとつ隣の
          山上にあります。付け根側とは細尾根一本でつながっており、城内は銀杏の葉のよう
          に広がっています。この細尾根の入口に、2条の三日月堀が穿たれており、堀ノ内城
          で最大の見どころとなっています。堀際は両側とも土塁が盛られていて、堀間は曲輪
          としてのスペースが確保されています。
           その先はしばらく細尾根となり、その両サイドにはかつて別荘地だったという今にも
          崖から転げ落ちそうなロッジ風の建物がひしめき合っています。尾根筋には、3本の
          堀切跡が認められます。そのうち真ん中のものは、すぐ背後に土塁を伴った曲輪が
          あり、かつてはこの曲輪を迂回するように道が通じていたようです。
           3本目の堀切を越えると主城域になるのですが、なんともとらえどころのない広大な
          空間です。主城域には民家が2軒だけあり、一帯は耕地や更地となっています。城内
          で最も高い位置にある方形の区画は、貯水池となっています。耕地の周囲の林の中
          を覗かせていただくと、切岸状の人工地形がチラホラ見えるのですが、城の遺構か
          どうかは判別できません。
           台地の最北辺には明らかに城の造作と思われる土塁線が残り、北西端附近では
          虎口状になっています。主城域で明確に遺構と考えられるのは、おそらくこの部分
          だけです。
           さて、堀ノ内城は隣の楽巌寺城とセットで奇妙な縄張りをもった城として知られて
          います。たしかに、千曲川側は断崖絶壁となっていて、地続きの細尾根さえ遮断して
          しまえば、城砦として成立する要害地形ではあります。ただし、沢伝いに回り込めば
          城の両サイドの斜面に広く取りついて攻めることは可能であり、入口さえ守っていれ
          ば安心というものでもないように思います。
           となると、広大な城域を守るのにそれなりの兵力が必要ということになりますので、
          一介の在地領主の詰城とするのは、少々疑問に感じます。二重の三日月堀は、おそ
          らく武田氏によるものと思われますので、その用途や築城・改修の経緯については、
          武田氏の経略の観点も踏まえて考える必要があるでしょう。

           
 二重三日月堀(外側)。
二重三日月堀(内側)。 
 同上。
三日月堀内側の曲輪に鎮座するお社。 
 尾根筋の堀切1条目。
同2条目。 
 2条目堀切裏手の曲輪。
同曲輪の虎口か。 
 3条目の堀切。
城内最高所の方形区画。内部は溜池。 
 主城域の切岸状地形。
同上。 
 北辺の土塁。
北西端の虎口状地形。 


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