楽巌寺城(がくがんじ)
 別称  : 布引城、額岩寺城
 分類  : 山城
 築城者: 楽巌寺雅方か
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : しなの鉄道・JR小海線小諸駅よりバス
       「諏訪山口」バス停下車徒歩25分


       <沿革>
           村上氏の武将楽巌寺雅方の持ち城と考えられているが、築城の経緯については不明
          である。雅方は、もと釈尊寺(布引観音)の末寺楽巌寺の僧で、武勇を見込まれて取り
          立てられた人物とされる。
           天文十二年(1543)、望月城が武田晴信によって攻め落とされると、望月氏庶流望月
          源三郎・新六の兄弟が「布引山」に立て籠もって抵抗を続けたことが、『高白斎日記』に
          記されている。この「布引山」が楽巌寺城を指しているとも考えられるが、確証はない。
          兄弟は同十八年(1549)に武田氏に降り、源三郎が望月信雅と名乗って望月氏の家督
          を継いだ。雅方および隣の堀ノ内城主とされる布下雅朝の名は、信雅の偏諱を受けた
          ものとも考えられるが、この場合同十八年以降に武田氏麾下として改名したことになる。
          雅方は、同二十二年(1553)に村上義清が越後国へ落ち延びるまでの間に、武田氏に
          臣従したとされる。
           その後は武田氏の城として使用されたと思われるが、資料には登場しない。


       <手記>
           楽巌寺城は、諏訪山台地の北辺、布引観音釈尊寺の裏手に位置しています。西へ
          400mほど行ったところに堀ノ内城があり、両者は連携関係にあったと考えられています。
          その縄張りが変わっていることで、謎の城として語られることの多い城跡です。
           謎の1つは、城の最前線の土塁の向こうがすぐ崖となっていることです。とくに南東端
          にある大手と思しき虎口は、喰い違いになっているなど工夫が凝らされているものの、
          抜けた先は崖と土塁に挟まれた犬走り状の狭いスペースとなっており、守備兵側から
          すれば背水の陣のような感じになっています。
           第2の謎は、どこが主郭か分からないことです。西側にもう1つ開いている虎口の先が
          やや広い曲輪となっており、そのさらに峰先側に、大きな空堀を挟んで中心的に見える
          曲輪があります。ただ、これらを主郭と断ずるだけの要素もありません。左右の虎口の
          先にはそれぞれ尾根が続いており、普通に考えればどちらかの峰先に主郭が設けられ
          ていそうなものですが、前述の曲輪より奥は、行けども行けどもほぼ原地形が続きます。
           直線的な土塁や喰い違いの虎口、そして折れをもった堀などから、最終的な改修者
          は武田氏であると推測されます。ですが、どのような戦略思想に則っているのか、いま
          ひとつ判然としません。直感的に考えたのは、当初の楽巌寺城は釈尊寺を中心として、
          両サイドの尾根と付け根を利用した鎌倉タイプの城だったのではないかというものです。
          そして、武田氏が入ると、諏訪山台地の開発へと主眼が移り、とりあえず峰の付け根
          側が改修されたのではないか。あくまでひらめき程度の類推ですが、そうでもしないと
          説明がつかないくらい奇妙な城ということができると思います。

           
 東の虎口の土塁と「血の池」と呼ばれる堀。
同じく土塁と「お歯黒池」と呼ばれる堀。 
 東の虎口を抜けた先の曲輪の堀と土塁。
東の虎口奥の曲輪。 
 西の虎口。
西の虎口前の空堀。 
 西の虎口奥の空堀。
西の曲輪内の仕切り土塁。 
 西の尾根途中の堀切跡と思しき切通し。


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