国府城(こう)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 国府盛門
 遺構  : 堀、土塁跡
 交通  : JR関西本線・紀勢本線亀山駅から
     バスに乗り、「国府」下車徒歩10分


       <沿革>
           貞治六/正平二十二(1367)、関盛政の次男二郎盛門が国府に城を築いて拠り、国府氏を
          称したとされる。『伊勢名勝志』によれば、伊勢平氏流富田(進士)家資が鎌倉時代に築城し、
          後に国府氏が取り立てたとされるが、確証はない。家資は、北勢四十八家の1つ春日部氏の
          祖とされる。
           7代盛邑ないし8代盛種のとき、国府氏は北勢に侵攻した織田信長に降伏した。天正十一年
          (1583)に織田信孝が切腹した後はその兄信雄に属したとみられ、翌十二年(1584)の小牧・
          長久手の戦いにおいて、国府城は羽柴秀吉麾下の蒲生氏郷に攻め落とされた。盛種は尾張
          へ逃亡したとも、美濃加賀野井城の戦いで戦死したともいわれる。これにより国府氏は滅び、
          国府城も廃されたものとみられる。


       <手記>
           国府城は、三味線の撥のような形をした鈴鹿川の河岸の台地上に築かれています。地名の
          とおり、この地には伊勢国府が置かれていたともいわれ、あるいはその施設跡を利用したもの
          かもしれません。
           上図の緑点の位置に説明板があり、『日本城郭大系』の掲載図によると、かつてはその東西
          に南北方向の空堀があったそうです。現状では、東側の堀については埋められているようで、
          西側の1本のみ確認できます。
           また、『大系』には記載がないのですが、台地の付け根にも上に図示したような東西方向の
          横一直線に伸びる堀切状地形が認められます。位置的にみても城域の頸部にあたり、ここに
          堀切があったとする蓋然性は高いといえるでしょう。
           ちなみに、私が今回この城を訪ねたのは、信長の野望シリーズに登場する国府盛種の居城
          だからという理由によるものです。同ゲームでの盛種は哀しくなるほど低スペックで、いったい
          何をやらかせばこんなにひどい扱いになるのかと興味津々でした。ところが蓋を開けてみると、
          降伏や戦死はしているものの、取り立ててマイナス視される要素はなく、それどころか秀吉に
          屈するのを潔しとせず、織田氏に忠をたてて戦っています。家や城地を守れなかったという点
          では賢将とはいえないかもしれませんが、別に愚将と評するような傍証もありません。国府城
          を訪れた感想として、どうかコー〇ーさんには、どうか盛種の今少しの地位向上をお願いしたい
          ところであります(笑)。

 国府城跡説明板。
説明板西側の空堀。 
 同じく東側の堀跡の現況。
台地付け根の堀切状地形。 
 同上。
堀切状地形に伴う土塁状地形。 


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