安達館(あだち)
 別称  : 安達盛長館
 分類  : 平城
 築城者: 安達盛長か
 遺構  : なし
 交通  : JR高崎線鴻巣駅または北鴻巣駅から
      バスに乗り、「放光寺裏」下車


       <沿革>
           源頼朝の近臣として知られる安達盛長の館と伝わる。盛長は藤原北家魚名流小野田氏
          の裔を称し、頼朝の乳母比企尼の娘丹後内侍を娶っていた。流人時代から頼朝に仕え、
          頼朝の子頼家の代には十三人の合議制の1人となった。
           館跡とされる放光寺は、盛長(法号蓮西)の開基とされる。安達氏は盛長の曽孫泰盛の
          代に、北条得宗家の外戚として最盛期を迎えたが、弘安八年(1285)霜月騒動で滅んだ。
          放光寺に安達氏の館が存在したとして、盛長以降も使用されていたのかは定かでない。
           一方、地名の糠田から、『吾妻鏡』に見られる「奴加田太郎」の居館跡とする説もある。
          奴加田太郎は、建久六年(1195)に源頼朝が東大寺を参詣した際、供奉人として随行して
          いる。ただし、名簿には関東一円の武士が名を連ねており、「奴加田」が糠田を指している
          とは断じ得ない。
           ちなみに安達の姓は、盛長が文治五年(1189)の奥州合戦の恩賞として与えられた
          陸奥国安達郡にちなむとする説と、武蔵国足立郡を領した甥の足立遠元に倣ったものと
          する説がある。前者の場合、奥州合戦以前は小野田ないし別の苗字を名乗っていたこと
          になるが、そうした形跡はみられない。また後者についても、「足立」でなく「安達」の字を
          用いる理由が定かでなく、両氏に一族としての関連性を示す事跡が見られない点が指摘
          されている。


       <手記>
           館跡とされる放光寺には、盛長のものとされる木造坐像があり、県の有形文化財に指定
          されています。また、境内からは12世紀末ごろのものとみられる渥美窯の骨壺が発掘され
          ていることから、少なくともこの地に盛長と同時代の有力者がいたと考えられています。
           遺構らしきものはなく、坐像や壺の説明板にも館についての言及はありません。墓地に
          「盛長公之墓所」なるスベスベで新しい墓石(宝篋印塔?)があるのですが、これは昭和
          五十八年(1583)に、伊豆の修善寺町にあった安達氏の墓の礎石だけを移したものだと
          いうことで、直接の関係はないようです。館が実在したかはわかりませんが、今日の地図
          を見る限り、糠田は周囲を荒川(当時の和田吉野川)と低湿地に囲まれた浮島のような
          地勢で、名前のとおりの土地だったとみれば、開発領主がいたとしても不思議ではない
          でしょう。
           調べていて気になったのは、やはり安達盛長の出自です。得られる情報から逆算して、
          定説では足立遠元は盛長の年上の甥ということになっていますが、史料上はそのような
          関係性を示唆する記述はないようです。あり得ないことではないですが、どうもたまたま
          「足立氏」と「安達氏」が近接して存在したことから、短絡的に同族とみられた可能性に
          ついても、考慮する必要があるのではないかと思います。
           むしろ、個人的には盛長については妻の実家比企氏との関係に注目しています。盛長
          の義父にあたる比企掃部允は、頼朝が伊豆に流された際に比企郡司として下向したと
          されています。糠田の対岸はもう比企郡であり、盛長が遠元の年下の叔父としてそこに
          すでに居住していたというより、比企氏とのつながりをもって関東に入植したとみることも
          できるのではないかと考えています。

           
 放光寺。
境内にある盛長公之墓所。 
 


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