小山城(こやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 穴山氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR中央本線甲府駅よりバス 「御坂西小学校前」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 『甲斐国志』には、宝徳二年(1450)に小山城主穴山伊豆守が甲斐守護武田信重を石和に 襲い、自害に追い込んだとする「古説」を載せている。信重殺害について一次史料にはみられ ないが、事実とすれば、信重が次男信介を穴山氏の養嗣子に送り込んで跡を継がせたことが 原因とみられている。 穴山氏は、武田信武の子義武にはじまる有力支族であるが、その本貫地は現在の韮崎市 穴山であり、同氏がいつごろ小山城を築いたのかは不明である。また、信介の養父とされる 穴山満春(信元)は武田信春(信武の孫)の子で信重の叔父にあたり、信介と同様武田宗家 からの養子である。伊豆守は満春の実子とも伝わるが、関係は定かでない。伊豆守のその後 については明らかでないが、結局穴山氏の家督は信介の子信懸が継いでいる。 信懸は、河内地方へ勢力を拡大して本拠地を移し、小山城には子の伊予守信永を配したと される。永正十年(1513)に信懸は実子清五郎(信永の兄弟)に暗殺されたが、信永は嫡男 ではなかったらしく、同じく信永の兄弟の信風(信綱)が家督を継いだ。 『甲斐国志』によれば、大永三年(1523)に河内地方の領主南部下野守(宗秀)が小山城を 攻め、信永は敗れて自害したとされる。下野守はそのまま武田晴信の代まで小山城主として 留まったが、天文十七年(1548)に晴信の勘気を蒙って追放されたとされる。 その後の小山城については史料にみられず、武田氏時代を通じて廃城となっていたものと 考えられている。天正十年(1582)の天正壬午の乱に際し、甲府盆地に侵攻した徳川家康勢 によって、小山城は陣城として修築された。城には鳥居元忠・三宅康貞・水野勝成ら約2千の 兵が詰めていたとされ、北条氏忠ら約1万の兵が駐屯する御坂城と対峙していた。 同年八月十二日、氏忠勢は峠を下って徳川勢に戦いを挑んだ。元忠らは黒駒でこれを迎え 撃ち、北条方およそ3百を討ち取って勝利した(黒駒合戦)。この戦いは、北条優位から徳川 優位へと傾く転換点となった。同年十月二十一日に両氏の間で和議が締結され、乱は終結 した。これにより、小山城は役割を失って廃城となったものと推測される。 <手記> 小山城は、御坂山地から延びる裾野の台地端に位置しています。あまり要害の地とはいえ ませんが、東には旧鎌倉街道である御坂みち、南には鳥坂峠を経由して中道往還に通じる 若彦道があり、甲府盆地への出入りを押さえる要衝の城であったことがうかがえます。 地図上からもくっきり分かるとおり、小山城はその中心部を完存に近い状態で残しています。 高い土塁と深い空堀で四周を囲まれ、南と東の2ヶ所に虎口を開いており、まさに方形城館の 教科書といえます。南の虎口が、車両通行のために拡げられてしまっているのが残念ですが、 それを差し引いてもよくここまで残ったものだと感嘆せざるを得ません。 もちろん、現在の遺構は最終的に徳川氏が改修したもので、おそらく少なくとも西辺と南辺の 外側に、もう1郭城域が拡げられていたものと推測されます。この2辺については、空堀が2本の 土塁に挟まれる格好となっています。また、主郭南東隅には櫓台状の張り出しがみられます。 おそらくこれも、御坂の北条勢を意識して増築されたものではないかと推測されます。 |
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城址碑。 | |
南辺の堀と土塁。 | |
城内のようす。 | |
東辺の虎口。 | |
南東隅の張り出し部。 | |
堀を挟んで土塁が二重になっている南西隅。 | |
西辺の土塁上から。 | |
城跡からの眺望。 |