クロイツェンシュタイン城
( Burg Kreuzenstein )
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: フォルンバッハ家
 交通  : Leobendorf-Burg Kreuzenstein駅より徒歩30分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           フォルンバッハ家(von Vornbach)により、12世紀に築かれたとされる。フォルンバッハ家は
          イン川沿いに勢力を伸ばしていた氏族であるが、1002年に皇帝ハインリヒ2世から当地周辺に
          所領を与えられた。したがって、12世紀以前からすでに何らかの施設があったとも考えられて
          いる。フォルンバッハ家のディートリヒ・フォン・グリツァーネシュタイネの娘がエンゲルブレヒト・
          フォン・ヴァッサーブルクに嫁ぐと、城もヴァッサーブルク家に譲られた。
           1246年、コンラート・フォン・ヴァッサーブルクが城をオーストリア公フリードリヒ2世(闘争公)に
          売却したが、フリードリヒ2世はその年に戦死した。1272年、オーストリア公を継いだボヘミア王
          プシェミスル家のオットーカール2世(オタカル2世)は、当時の所有者であったアエギディウス・
          フォン・プレースブルクから城を譲り受けた。翌年、当時は弱小勢力であったハプスブルク家の
          ルドルフ1世が皇帝に選出されると、これに不満をもつオットーカール2世はルドルフ1世と戦った
          が、敗れてボヘミアへ退いた。財政基盤の弱いハプスブルク家は、クロイツェンシュタイン城を
          たびたび抵当に入れていたという。
           1408年、オーストリア公の地位をめぐるハプスブルク家内のエルンスト鉄公とレオポルト4世
          (肥満公)兄弟の争いに付け込んで、ウィーン市長コンラート・フォアラウフが反乱を企てた。
          しかし、兄弟が停戦したことにより、コンラートは進退に窮し捕縛された。コンラートらはクロイ
          ツェンシュタイン城に拘留され、まもなくウィーン市内で斬首された。1425年からは、短期間では
          あったがオーストリア公アルブレヒト5世(後の神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世)がクロイツェン
          シュタイン城に居住したとされる。1450年には、皇帝フリードリヒ3世によってオルト城に幽閉
          されていた当時10歳のアルブレヒト2世の子ラディスラウス・ポディスムスの解放交渉が、クロイ
          ツェンシュタイン城で行われたとされる。また同年からは、コーアノイブルク要塞の支城となった。
           1525年、城を含むクロイツェンシュタイン一帯はニクラス伯ザルムに与えられた。1527年には、
          再洗礼派の宣教師バルタザール・フープマイアーがこの城で尋問を受けた。バルタザールは、
          翌年ウィーンで火刑に処された。
           三十年戦争が勃発すると、当時の城の所有者はヘルバーシュタイン家であったが、1620年
          にボヘミア軍によって占拠された。1645年にはレンナート・トルステンソン率いるスウェーデン軍
          に無血で占領された。同年、トルステンソンはクロイツェンシュタイン城を爆破して、ボヘミアへ
          向かった。その後、城の石材が周辺住民の建材として持ち去られたため、一部を遺して廃墟と
          化した。
           1874年になり、シュレージエンでの炭鉱経営で財を成したハンス・ヴィルチェック伯によって、
          クロイツェンシュタイン城は再建された。再建とはいっても、当時流行のロマン・ゴシック様式で
          設計し直され、外観は爆破前のものとは大きく異なっている。

       <手記>
           クロイツェンシュタイン城は、ドナウ川上流からみればウィーン山峡の喉口部を押さえる要衝に
          あります。城山一帯からは、遠くウィーンを望むこともできます。
           現在、前述の通りロマンチックあるいはメルヘンの城として再建されていて、誇張された中世の
          気分を味わえる観光スポットとなっています。一応、外周の城壁や礼拝堂の一部などは、往時の
          石材を利用しているとのことです。
           この城を訪れる際に気を付けていただきたいことは、最寄駅が典型的な無人駅で、かつ公共
          交通機関が通っていないということです。私は移動途中にキャリーバックを引きながら寄ったの
          ですが、ロッカーもなければバスもタクシーも見当たらず、やむなくバックをガラガラ引き引き山上
          まで登る羽目になりました。城内はツアーで回るのですが、夏日のなか登るだけで疲れきって
          しまったうえ、宿までの時間を考えるとツアーの参加は無理と判断し、入口で引き返しました。
          この城を訪れるときは、車で来るか連泊中に身軽な格好で来るようにしましょう。
           そのようなわけで、感動よりも恨みつらみの方が勝ってしまった城でした。

           
 城をめぐる堀と入口にかかる石橋。
堀のようす。外壁は当時の石材を利用しているとか。 
 城門と城のようす。
門をくぐったチケット売り場付近のようす。 
 城山からウィーン方面を望む。
 左手奥にかすかに国連都市のタワーが見えます。


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