公方屋敷(くぼう)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 和田惟政
 遺構  : 削平地
 交通  : JR草津線油日駅徒歩10分


       <沿革>
           永禄八年(1565)五月十九日、三好義継や三好三人衆、松永久通らが御所へ攻め入り、
          将軍・足利義輝やその弟の照山周ロを殺害した(永禄の変)。義輝の次弟で周ロの兄に
          あたる覚慶は、松永久秀らによって興福寺に幽閉されていたが、七月二十八日に幕臣の
          手引きで脱出した。
           覚慶一行は伊賀経由で甲賀の和田惟政を頼り、惟政は屋敷を宛がって覚慶を保護した。
          公方屋敷はこのときに建てられたとみられるが、他方で「和田いずみの館」とする史料も
          あることから、和田一族の既存の館を提供したとする見方もある。惟政は幕府の御供衆で
          あったともいわれるが、幕府と具体的にどのようなつながりを持っていたのかは明らかで
          ない。
           覚慶は和田から全国の大名に御内書を送り、自身の支援者を募った。惟政は諸大名の
          取次を務めたが、覚慶は同年十一月に、六角承禎の招きを受けて近江国矢島へ移った。
          このとき、惟政は織田信長の支持を得るため尾張に滞在していたとされ、無断での遷座に
          激怒した惟政に対し、覚慶が謝罪した書状が残っている。
           覚慶は矢島御所で還俗して足利義秋と名乗り、後に義昭と改名して永禄十一年(1568)
          に信長と共に上洛を果たしたが、公方屋敷のその後は不明である。


       <手記>
           和田谷の入口近く、殿山南麓の窪地が公方屋敷跡とされています。説明板や伝惟政の
          供養塔などがありますが、城館としての明瞭な遺構は見られません。背後の丘上は畑地と
          なっていて、当時の削平地を転用しているとも考えられますが、やはり防備としては脆弱な
          感じです。
           殿山には殿山城が、そして和田川を挟んだ向かいには公方屋敷支城があり、公方屋敷
          の防備についてはこれらの城砦に委ねていたように思われます。たしかに、屋敷に雑多な
          武装兵を入れてしまうと、かえって兵士に暗殺者が紛れてしまう恐れがあったのかも知れ
          ません。屋敷周囲の削平地も、曲輪というよりは義昭近臣の住戸であったと考える方が、
          現実的なように感じます。

 公方屋敷支城付近から公方屋敷跡を俯瞰。
屋敷跡の説明板。 
 伝和田惟政供養塔。
屋敷跡のようす。 
 背後峰上のようす。


BACK