矢島御所(やじま)
 別称  : 矢島館
 分類  : 平城
 築城者: 矢島氏か
 遺構  : 堀跡、土塁跡
 交通  : JR東海道本線守山駅よりバス。
       「矢島南口」バス停下車。


       <沿革>
           矢島館は、在地領主矢嶋氏の居館である。守山市公文書館発行の『守山城物語』には
          天文年間(1532〜54)の築城とあるが、典拠は不明である。
           永禄八年(1565)、将軍足利義輝が暗殺されると、興福寺を脱出した義輝の弟覚慶は、
          甲賀の和田氏を頼った。さらに覚慶は観音寺城の六角承禎(義賢)を頼り、承禎は矢島に
          覚慶の居所を建築した。覚慶は矢島で還俗し、足利義秋と名乗った。後の将軍足利義昭
          である。矢島の義秋居館は矢島御所と呼ばれ、矢嶋越中守が警固に当たった。
           永禄九年(1566)、西近江で三好長逸が乱を起こし、矢島御所にも三好三人衆の兵が
          攻め寄せたとされる。また、六角承禎・義治父子が三好三人衆と結んだとの報にも触れ、
          義秋は矢嶋御所を去り、若狭へと下った。それゆえ、実際に矢島御所と呼ばれたのは1年
          少々に過ぎなかったことになる。その後の矢島館および矢嶋氏については詳らかでない。
           江戸時代には、矢島周辺は大溝藩分部氏2万石の領地となり、現地案内板によれば、
          御所跡に飛び地である矢島周辺の統治のための行政府が置かれた。


       <手記>
           自治会館のあたりが矢島御所跡とされ、会館前に石碑が建てられています。隣接する
          児童公園に当時の堀跡があるとされていますが、判然としませんでした。また自治会館の
          西にある少林寺は、矢島館の跡ということです。境内に土塁が残っているとのことですが、
          新築のわりに残念ながらあまり手入れされていない感じで、どこが該当箇所かよく分かり
          ませんでした。
           矢島御所は、おそらく矢島館に隣接して増築され、両者が一体となって城塞としての体
          を成していたものと思われます。
           周辺は、最後の将軍が過ごした由緒ある場所とは思えないほどのどかな集落でした。

           

 自治会館前に建つ御所跡石碑。
館跡の一部に建つ少林寺。 


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