久貝城(くがい)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 久貝氏か
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR東海道本線長岡京駅徒歩25分


       <沿革>
           土豪久貝氏の居城とされる。江戸時代の大身旗本に久貝氏があり、『寛政重修諸家譜』に
          よれば、寛正年間(1461〜66)に藤原兼寛が山城国乙訓郡を受領し、子孫が久貝村に居住
          して久貝氏を称したとされる。
           旗本久貝氏初代久貝正俊は、元和五年(1619)から慶安元年(1648)まで大坂東町奉行を
          務め、5700石を領していたが、山城には所領をもっていなかったようである。正俊の父正勝
          も、もともとは今川氏の家臣であったとされ、旗本久貝氏と山城久貝氏の関係は不明である。
           山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」(『京都大学人文科学研究所調査報告 
          第53号』)によれば、久貝城主久貝氏は江戸時代には隣の勝龍寺村へ移って庄屋を務めた
          とされる。


       <手記>
           久貝城は、小畑川右岸の台地の端にあったとされています。現在も、比定地の北辺の土塁
          と堀跡が、緩やかなカーブを描いて残っています。上の地図に示した城域は、山本氏「中世
          城郭」に描かれている範囲をなぞったものですが、城館としてはやや狭すぎるようにも思われ
          ます。とくに、この城域だと、舌状台地を利用していながら北辺以外の三方が地続きとなって
          しまうため、もう少し南ないし東に城域は延びていたのではないかと推測されます。
           県道204号線沿いに、城跡からとったものかは分かりませんが、その名も「城」というスナック
          の看板があるので、これを目印にすると良いかと思います。

           
 北辺の土塁と堀跡。
北側から城跡を望む。 


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