熊野別当屋敷(くまのべっとう)
 別称  : 別当屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 熊野別当家
 遺構  : なし
 交通  : JR紀勢本線新宮駅徒歩20分


       <沿革>
           熊野三山を支配した熊野別当家の屋敷跡とされる。熊野別当の役職が成立したのは、
          10世紀ごろと考えられている。当地に別当の屋敷がいつ建造されたのかは定かでない。
           寛治四年(1090)の白河上皇の熊野行幸の後、15代熊野別当長快は朝廷から公的に
          熊野の支配を委ねられ、熊野別当も世襲となった。長快の死後、熊野別当家は新宮家と
          田辺家に分かれ、その後さらにいくつかの分家を輩出した。新宮の別当屋敷は新宮家の
          邸宅であったものと考えられる。
           19代別当で長快の孫の行範は、源為義の娘丹鶴を妻とした。近世に新宮城が築かれ
          た丹鶴山は、このときに別当家の別邸があり、丹鶴姫が居住したことにちなむとされる。
          丹鶴姫の娘の1人は、田辺別当湛増の妻となった。また、丹鶴姫の同母弟には源行家
          (新宮十郎)がいる。熊野別当一族は12世紀末の源平合戦で源氏方につき、熊野水軍を
          率いて活躍した。戦後、丹鶴姫(行範死後は剃髪し鳥居禅尼と称)や湛増(21代別当)は
          源頼朝より所領を賜って地頭となった。
           承久三年(1221)の承久の乱に際し、当時の別当湛政は中立の立場を示したものの、
          一族郎党のなかから多数上皇方に馳せ参じるものが出た。そのため、別当家は乱後に
          幕府からの介入と圧力を受けることになった。次第に熊野地域でも影響力を失っていき、
          南北朝時代中期ごろには、「熊野別当」の呼称も消滅したとみられている。別当屋敷が
          いつごろ廃されたのかは明らかでない。


       <手記>
           熊野別当屋敷は、熊野三山の1つ熊野速玉神社の門前近くにあったとされています。
          遺構などは何もなく、「別当屋敷町」の町名のみが残されています。
           信用金庫の裏手(上の地図の緑点付近)には、屋敷跡の石碑と説明板が設置されて
          います。路地が交錯する古い街並みの一角なので見つけにくいのですが、電柱を頼りに
          歩き回ると、質屋かなにかの案内のように「別当屋敷跡ココ↓」と書かれた看板がある
          ので、これを目標にするとよいかと思います。

           
別当屋敷跡の石碑と説明板。
石碑のありかを示す電柱の標識。 


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