久礼城(くれ) | |
別称 : 上ノ城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 佐竹氏か | |
遺構 : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口、井戸跡 | |
交通 : JR土讃線土佐久礼駅徒歩15分 | |
<沿革> 在地領主佐竹氏の居城である。土佐佐竹氏は、常陸国の佐竹氏の分流とされる。 『佐伯文書』には、南北朝時代の暦応二/延元四年(1339)に、北朝に属した土佐の 佐竹氏の名がみられる。このときまでには土佐国高岡郡久礼に入植していたものと 考えられるが、その経緯や詳しい系譜は定かでない。 当初の佐竹氏は、現在高知 自動車道の中土佐ICとなっている西山城を居城としていたとみられ、15世紀ごろに 久礼城に本拠を移したと推測されている。久礼城がそれ以前から存在していたかは 不明である。 応仁の乱をきっかけに、京の一条氏が土佐幡多荘に下向して国司大名となると、 佐竹氏は一条氏の重臣に列した。しかし、戦国時代後期に長宗我部氏が台頭すると、 久礼城主佐竹義直は長宗我部元親の弟吉良親貞の調略を受けて寝返った。義直の 甥で上ノ加江城主の佐竹親直は元親の娘を妻とし、土佐佐竹氏は長宗我部氏のもと で最盛期を迎えた。 天正十四年(1587)、戸次川の戦いで義直は元親の嫡男信親ら とともに討ち死にし、跡を子の親辰が継いだ。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで長宗我部氏が改易となると、親辰は堺へ移り 住み、能書家として余生を過ごした。このときに久礼城も廃城となったものと思われる。 ちなみに、親直は長宗我部盛親に従って大坂の陣に参加し、八尾の戦いで討ち死に した。親直の子は後に仙台藩に仕え、伊達騒動で知られる柴田外記朝意となった。 <手記> 久礼城は久礼の港町背後の峰のピークにあります。麓の久礼中学校脇の給水塔 から登山道が伸びています。国道を挟んだ同じ峰の先の久礼中学校や金毘羅神社 付近には、それぞれ中ノ城と下ノ城があったとされています。それに対して、こちらの 山城は上ノ城と呼ばれていたようで、3城あわせて広義の久礼城を形成していたもの と思われます。 上ノ城は詰ノ段とその東下の二ノ段、そして詰ノ段の西側背後の三ノ段の、大きく 3つの曲輪から成っています。それぞれの曲輪は、周囲をめぐる土塁が良好に残って いて見応えがあります。ところどころ石積みの跡がみられ、おそらく当時はかなりの 部分に石塁が用いられていたものと推測されます。長宗我部氏の城で石塁が使用 されているものはかなり限定されると思うので、久礼城と佐竹氏がいかに土佐国内 で重要視されていたかが分かります。 もう1つ驚かされるのが堀で、詰ノ段にある説明板の実測縄張り図によると、堀切・ 竪堀・横堀と、山の周囲にびっしりと張り巡らされていたようです。それらの多くは、 藪に埋もれていて旅先の軽装で見に行くのは控えた方が良さそうと判断しましたが、 三ノ段西側の堀群は(おそらく)もっとも容易に拝むことができます。尾根筋を3条の 堀切でしっかり断ち切り、さらにその脇にはまるで獣が走り回った跡のように、横堀 が縦横無尽に交わっています。 土佐国内でみても屈指の規模をもつ久礼城ですが、個人的には上ノ城は最後に 拡張された部分で、佐竹氏が西山城から移ってきた当初は、中ノ城および下ノ城が 全城域だったのではないかと拝察しています。中ノ城だと、ちょうど西山城と高さも 同じくらいですし、佐竹氏の地力からみても無理がないように思います。これが逆と なると、あくまで直感ですが方向性としてしっくりこないような気がします。 |
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久礼城址を北から望む。 | |
登城路中途の竪堀。 | |
二ノ段跡。 | |
二ノ段の虎口跡。 | |
二ノ段の石積み。 | |
二ノ段南の虎口。 | |
二ノ段の横堀。 | |
詰ノ段の虎口。 | |
詰ノ段の城址石柱と説明板。 | |
詰ノ段のようす。 | |
詰ノ段の井戸跡。 | |
詰ノ段東側先端部のようす。 | |
詰ノ段の土塁。 | |
石積みの残る詰ノ段北辺の虎口。 | |
詰ノ段西背後の堀切。 | |
三ノ段の土塁。 | |
三ノ段と土塁。 | |
三ノ段背後の連続堀切。 | |
三ノ段背後の横堀群。 | |
登城路中途から久礼市街と久礼湾を望む。 |