久田城(くった)
 別称  : 九田城
 分類  : 平山城
 築城者: 長野源左衛門か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR越後線妙法寺駅徒歩50分


       <沿革>
           建仁元年(1201)の城長茂の乱において、久田の土豪・長野源左衛門は城資盛追討軍の大将と
          なった佐々木盛綱に加勢し、その前後に久田城を築いたとされる。源左衛門は、保元年間(1156〜
          59)にこの地に住み着いた公家の河鰭氏の子と伝えられる。ただし、河鰭家は権大納言・滋野井
          実国の次男藤原公清の子実隆にはじまり、公清は仁安元年(1166)の生まれであるため、信憑性
          には疑問が残る。
           その後の長野氏については詳らかでない。永正年間(1504〜21)には、越後守護・上杉房能の
          家臣山田豊後守が5年間在城していたともいわれる。


       <手記>
           久田城は日本海に臨む小高い峰上にあり、久田はかつて「九田」とも書かれたそうです。お世辞
          にも発展性が望める土地とはいえませんが、今でこそ海岸線沿いに国道が北上しているところ、
          当時は出雲崎からの道は久田城の南東尾根に上がって妙法寺へと抜けていたようです。妙法寺
          には同じ稜線上に村岡城があることから、谷筋と海岸筋の2ルートの分岐点を押さえるという意味
          で、交通上の重要性を持つ城だったものと推測されます。とはいえ、こんな寒地に平安時代の公家
          下向して定住するとはとても考えられず、河鰭家云々は長野氏の仮冒とみるのが妥当でしょう。
           こちらの城へは、柏崎周辺の城跡を案内していただいたツイッターのフォロワー様に、日暮れ前の
          〆に労せず登れる城跡として紹介してもらいました。なんでも一帯は雪割草の群生で知られている
          そうで、そのために樹木を伐採しているのか、下草に覆われた城山は曲輪の様子までくっきり露わ
          になっていました。
           城山の南西麓には字中屋敷という広い休耕田が続いていて、その海側には高土塁があります。
          居館および根古屋だったものと思われ、土塁は防御というよりも、日本海側とて波風を避けるのが
          目的だったのでしょう。こちらも高い木などは生えていないため、登城の途中で振り返ると、集落と
          合わせて全景が俯瞰できます。
           主郭には低い土塁の痕跡と石碑があり、海の向こうには佐渡島が望めます。周囲には腰曲輪が
          認められるものの、さほど技巧性はみられません。尾根筋を遡ると屈曲した空堀があり、その先は
          曲輪形成が曖昧です。上杉房能は永正四年(1507)に戦死しており、山田豊後守の在城はいかに
          遅くてもそれから5年なので、早ければ永正年間の前半に廃城となったものと推察されます。

           
 久田城跡を望む。
字中屋敷のようす。 
 奥に高土塁が見えます。 
 登城途中から中屋敷と久田の集落を俯瞰。
主郭のようす。 
 主郭の城址碑。
佐渡島を望む。 
 主郭の土塁痕。
屈曲した空堀。 
 同上。
空堀の向こう。 
 やや藪化して曲輪形成もはっきりしません。 


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