| レオポルツベルク ( Leopoldsberg ) |
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| 別称 : レオポルツベルク城、カーレンベルク城 | |
| 分類 : 山城(Höhenburg) | |
| 築城者: レオポルト3世 | |
| 交通 : ハイリゲンシュタト駅からバスに乗り、 「カーレンベルク」下車徒歩15分 |
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| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1136年に没したオーストリア辺境伯レオポルト3世によって、12世紀前葉にカーレンベルクと 呼ばれていた山上に、城館が築かれたと考えられている。1246~53年にはオーストリア公 フリードリヒ2世の姪ゲルトルートが居住し、続いてフリードリヒ2世の姉マルガレーテと結婚した ボヘミア王オタカル2世が、1258年まで所有した。1287年から1288年にかけて、オーストリアに 圧政を布いたドイツ王アルブレヒト1世が、反乱を起こしたウィーン市民に対抗するため、この城 へたびたび立て籠もり、拡張を重ねたとされる。 1484年にはハンガリー王マーチャーシュ1世によって制圧され、その没後にハプスブルク家が 奪還したが、城は大きく荒廃した。1502年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はヴォルフガング・ ヒューガーにカーレンベルク城を与え、ヴォルフガングはカーレンベルガー家を称した。1529年 にオスマン帝国軍がウィーンに迫ると(第一次ウィーン包囲)、城は軍事拠点として利用される のを防ぐために破壊された。 その後は長らく廃墟となっていたとみられ、1679年にウィーンでペストが大流行すると、神聖 ローマ皇帝レオポルト1世は城跡に礼拝堂を建立した。1683年の第二次ウィーン包囲によって 礼拝堂は損傷を受けたが、戦後の1693年に完成した。このとき、聖伯とも呼ばれた築城主の レオポルト3世に奉献され、カーレンベルクはレオポルツベルクと改名され、ザウベルクないし ヨーゼフスベルクと呼ばれていたひとつ隣の山がカーレンベルクと改められた。 <手記> ウィーンの北方、ドナウ川に向かって突き出た比高250mほどの山がレオポルツベルクです。 麓からえっちらおっちら登ってくるウィーンっ子も少なくありませんでしたが、観光名所になって いるカーレンベルクまでバスで来れば、下りのハイキングで楽に行くことができます。 上述の通りもともとはこちらがカーレンベルクと呼ばれており、カール(kahl)とは「ハゲている」 という意味です。おそらくは、比較的急峻な山容を指して名付けられたのではないかと思われ ます。麓から見上げると、日本でも普通に山城が構えられたであろう雄々しい姿をしています。 背後の駐車場の先には、第二次ウィーン包囲で活躍したウクライナ・コサックを称える銅像が 建っていて、その脇の鞍部には堀切が設けられていたように見えます。礼拝堂敷地の周囲は 今も断続的に城壁が巡っていて、とくに南辺は城砦の雰囲気を色濃く残していました。円形の 立派な城塔も建っており、第一次ウィーン包囲時の破壊は、実際にはそこまで徹底されていな かったのではないかとも感じます。 カーレンベルク同様ウィーン周辺を見渡す眺望に優れ、城館に興味のない人でも、ウィーンで 時間のある時には、しばし現地市民と肩を並べてのハイキングを楽しんでみてはいかがでせう。 |
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| レオポルツベルク教会。 | |
| 南西隅の城壁。 | |
| 南辺の城壁。 | |
| 同上。 | |
| 南辺の円形の城塔。 | |
| 同上。 | |
| 城山からウィーン方面の眺望。 | |
| 城山からカーレンベルクを望む。 | |
| 北辺の城壁。 遺構ではなく新設されたものか。 |
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| 背後鞍部。堀切跡か。 | |
| 背後鞍部のウクライナ・コサック顕彰像。 | |