リンツ宮
( Linzer Schloss )
 別称  : リンツ城
 分類  : 平山城
 築城者: カール大帝か
 交通  : リンツ中央駅より路面電車でハウプト広場電停下車徒歩10分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           リンツの歴史は、ローマ時代にレンティア陣営(Kastells Lentia)が置かれたことにはじまるが、
          それがリンツ宮のある丘であったかは定かでない。リンツ宮が史料に登場するのは、799年に
          カール大帝が教会と城砦(Castrum)をパッサウ司教ヴァルトリヒ・フォン・パッサウに譲り渡した
          とするものである。後にバイエルン公位が成立すると、リンツは同公支配下に属したとみられて
          いる。
           1210年、当時リンツを治めていたゴットシャルク・フォン・ハウンスペルクは、城館を含めた町の
          統治権をオーストリア公レオポルト6世に売却した。レオポルト6世の子フリードリヒ2世(闘争公)
          は神聖ローマ帝国と対立し、1236年にバイエルン公オットー2世とパッサウ司教リューディガー・
          フォン・ベルクハイムの軍によってリンツは包囲された。陥落したとする記述はみられないため、
          このときは耐え切ることができたと考えられている。1288〜91年の間には、エーベルハルト4世・
          フォン・ヴァルゼーが城主となり、以後ヴァルゼー家が城主家を務めた。
           1458年、オーストリア公からオーストリア大公へ昇格したアルブレヒト6世は、居所をリンツに
          定めた。必ずしも城内に住んだわけではないようだが、城も町も拡張整備されることとなった。
          1463年、アルブレヒト6世は兄の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世をウィーンから締め出すという
          事件を起こしたが、まもなく死去した(暗殺とも)。リンツ城はフリードリヒ3世に相続され、1467年
          にはここで議会が開かれた。1476年からは、ハンガリーの伸長に対抗して城の要塞化が進め
          られた。1484年には、ハンガリー軍によってフリードリヒ3世はウィーンを逐われ、リンツに遷都
          した。1489年にハンガリー王マーチャーシュは死去し、オーストリア軍はウィーンを回復したが、
          フリードリヒ3世はリンツに留まり1493年に同地で世を去った。その後も、オーストリア領内では
          ウィーンに次ぐ重要都市として、歴代皇帝やオーストリア大公がたびたびリンツを訪問している。
           1529年の第一次ウィーン包囲後、リンツも他の城砦や都城と同様に防備強化が図られた。
          1599年から1604年にかけて、皇帝ルドルフ2世の命によって城内にルネサンス調の宮殿が造営
          された。1620〜28年には、城と町がバイエルン公国の抵当として差し押さえられ、その間、城代
          を務めたアダム・フォン・ヘルバーシュトルフによって城塞化はいっそう進められた。1626年には
          オーバーエスターライヒ一揆が起こり、リンツ城は一揆勢に2ヶ月ほど包囲された。しかし、一揆
          の指導者シュテファン・ファーディンガーは包囲戦中に戦死し、城は陥落を免れた。三十年戦争
          さなかの1636年には、トリーア大司教フィーリプ・クリストフ・フォン・ゼーテルンがリンツ城内に
          監禁された。
           1683年の第二次ウィーン包囲では、ウィーンを脱出して各国に援軍を要請した皇帝レオポルト
          1世が、パッサウからリンツ城に移って軍勢の集結を待った。1786年には城内に初めて兵営が
          置かれたが、フランス革命戦争中の1796年には野戦病院となった。1800年、大火によって城は
          市内の多くの建物とともに灰燼に帰した。その後、修復は部分的にしかなされず、建て直された
          建物は再び兵営として使用された。
           現在目にしている宮殿は、第二次世界大戦後に博物館として復興されたものである。

       <手記>
           リンツ宮は、今でこそ名乗りは宮殿(Schloss)ですが、建物を除けば残っている遺構は完全に
          城塞のそれです。とくに西側の遺構は素晴らしく、堀や城壁をはじめ門、塔、井戸跡などがとても
          良好に残っています。
           これらの遺構は、台地の付け根を切るために設けられたもので、日本の中世城館などととても
          よく似た縄張りとなっています。リンツ城自体も、ドナウ川に北面して東にのびる舌状の台地先端
          に築かれています。地続きの西側から進入するには2つの門をくぐらなければならないのですが、
          この2門は日本でいうところの桝形虎口とよく似た配置となっています。
           西側の遺構は、町の中心部から博物館のある宮殿に入ってしまうと、目にすることなく終わって
          しまうので、訪れる方には注意深く周囲を探索していただきたいと思います。ちなみに、ドナウ川
          に面した北側の城壁上はテラスカフェとなっていて、お勧めです。
           
 北西隅の塔ないし砲台。
西側の堀と城壁。 
 西側から見て第一の門「マルティン門」。
第二の門「フリードリヒ門」 
 ドナウ川に面した城壁。城壁上にはカフェがあります。
井戸跡。 


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