マルメー城
( Malmöhus slott
 別称  : オーバーハウス城
 分類  : 平城
 築城者: エーリク7世
 交通  : マルメー中央駅より徒歩15分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           12世紀初めごろには、「マルムハウク(Malmhaug)」という港があったとされる。この名称は
          「砂の丘」を意味する古デンマーク語にちなむとされる。14世紀にハンザ同盟の一員となると、
          「エルボーゲン(Elbogen)」というドイツ語の都市名でも呼ばれるようになった。
           15世紀初頭には街を囲む城壁が建設され、1434年にはデンマーク王エーリク7世によって
          街の西側に城塞が築かれた。1525年、デンマーク王フレゼリク1世の命によってマルメーの
          城塞は大幅に拡張され、4年をかけて現在に残る中心部の建物群が完成した。
           1534年、宗教改革にともなう伯爵戦争と呼ばれる内乱がデンマークで勃発した。マルメー
          市長ヨーアン・コックは、この蜂起を主導した人物の1人とされる。国王クリスチャン3世の側近
          ヨハン・ランツァウの攻撃により、1536年にマルメーは降伏を余儀なくされた。伯爵戦争を受け
          てマルメー城は1540年に拡張され、新たな堀と4本の隅塔などが設けられた。16世紀中には、
          皇太子時代のフレゼリク2世が居住したり、スコットランド女王メアリーの3番目の夫ボスウェル
          伯ジェームズ・ヘップバーンが幽閉されたりしていた。
           17世紀中期の北方戦争でデンマークがスウェーデンに敗れると、1658年のロスキレ条約に
          よって、マルメーを含むスコーネ地方はスウェーデンに割譲された。1675年に、デンマークが
          スコーネ地方の奪回を目指してスコーネ戦争を仕掛けると、スウェーデン軍はマルメーの城塞
          を残して駆逐されてしまった。デンマーク軍は孤立したマルメー城を1万を超える兵力で1ヶ月
          にわたり包囲したが、攻め落とすことはできなかった。
           その後は戦場となることはなく、1828~1909年にかけて監獄として使用されていた。次いで
          貧しい市民のための簡易宿泊施設となり、1937年からは、修復のうえ博物館となっている。

       <手記>
           マルメーはスカンジナビア半島の南端近くにあり、幅15kmほどのエーレ海峡を挟んだ対岸
          には、デンマークの首都コペンハーゲンがあります。コペンハーゲン空港が海峡に面している
          ので、2000年に開通したエーレスンド・リンクを通じて空港からマルメーまで鉄道で20分ほど
          で到着できてしまいます。
           マルメー城はマルメーキュ旧市街の西端に位置しています。伯爵戦争の経緯を鑑みると、
          両者は一応それぞれ独立した関係にあったものと考えられます。旧市街の方には一重の、
          城の方には二重の水濠がぐるっと残っています。外堀は星型要塞を、内堀は四隅に円形の
          塔をもつ方形城郭を形成しています。内郭の建物は16世紀の姿をとどめているということの
          ようですが、四隅の塔については近代以降にバッテリーに改変されているように見受けられ
          ます。内郭の建物は上述の通り博物館として利用されています。
           マルメーはコペンハーゲンから東京~横浜くらいの距離しかなく、国境を跨ぎますが出入り
          は容易です。デンマークとスウェーデンの係争の地として、歴史的な価値も高い都市である
          といえます。

           
 マルメー城内郭北辺正面のようす。
内郭の建物。 
 郭内にある昔日のマルメーのレリーフ。
内郭南東隅のようす。 
 内郭北東隅を望む。
外郭南西にある移築風車。 
 市街を囲む水濠兼水路。
同じく公園内を流れる外角の濠。 
 マルメー旧市街中心部の大広場。


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