マリエンベルク要塞
( Festung Marienberg )
 別称  : ウンターフラウエンベルク要塞
 分類  : 山城(Höhenburg)
 築城者: 不明
 交通  : ヴュルツブルク駅より市電利用。
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           古代には先住していたケルト人の砦や礼拝堂があったといわれている。6世紀ごろから
          フランク人の入植がはじまり、704年に城山の上に聖母マリア教会が建造された(706年
          とも)。この教会に付随してやはり砦が築かれていたといわれ、これがマリエンベルク要塞
          の起源とされる。741年ないし742年にヴュルツブルク司教座が置かれた。
           1201年、ヴュルツブルク大司教コンラート・フォン・クヴェーアフルトは、マリエンベルクに
          主塔や井戸を備えた本格的な城の建築を命じた。当時、シュタウフェン家とヴェルフ家の
          間の皇位争いが先鋭化しており、コンラートの3代前の大司教であったフィリップ・フォン・
          シュヴァーベンは、シュタウフェン派に擁立されてドイツ王に就いていた。狭義のマリエン
          ベルク要塞の歴史はこのときからはじまる。1253年からは大司教が実際に住み、執務を
          行うようになり、18世紀まで大司教の居館として機能した。
           ドイツ農民戦争さなかの1525年、宗教改革を唱える一揆勢はヴュルツブルクを囲んだ。
          大司教コンラート2世・フォン・チューリンゲンは一時ハイデルベルクのプファルツ選帝侯の
          もとへ逃亡したが、シュヴァーベン同盟の諸侯軍らとともに舞い戻り、マリエンベルク要塞
          に立て籠もった。要塞は、廷長ゼバスティアン・フォン・ローテンハーンやヴュルツブルク
          司教座大聖堂首席司祭フリードリヒ・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハらの活躍も
          あって、持ち堪えることができた。
           1572年に火災によって城館の一部が焼け落ちると、大司教ユリウス・エヒター・フォン・
          メスペルブルンは城内の館部分全体をルネサンス調に改めて再建させた。この工事は
          1570年代末まで行われたといわれる。
           三十年戦争さなかの1631年、城はスウェーデン王グスタフ2世アドルフの軍勢によって
          占領された。スウェーデン軍撤退後の1634年に、大司教フランツ・フォン・ハッツフェルトは
          ヴュルツブルクへ帰還することができた。戦後、フランツはマリエンベルクをゴシック様式
          に改めさせた。その後も普請は続けられ、「要塞」と呼ぶにふさわしい現在のフォルムは、
          18世前半頃に完成したとされている。しかし、完成したころには大司教の平時の宮殿で
          あるレジデンツの建設がはじまり、1781年に落成するとマリエンベルクは大司教の居館
          としての役目は終えることとなった。
           1803年の世俗化(Sakularisation)によってヴュルツブルク司教座は解体され、ヴュルツ
          ブルク大公国となった。ヴュルツブルクはその首都となったが、1814年にバイエルン王国
          に併合された。1866年の普墺戦争でバイエルン王国はオーストリアについたため、バイ
          エルン軍の籠るマリエンベルク要塞にプロイセン軍が攻め寄せた。両軍激しく砲撃を応酬
          したが、要塞は陥落することなく停戦協定が結ばれた。
           第一次世界大戦後にナチが台頭すると、マリエンベルク要塞は突撃隊の社会奉仕陣営
          として利用された。1945年3月16日の空襲で大きな被害を受けたが、戦後の1950年に
          再建された。

       <手記>
           マリエンベルク要塞はヴュルツブルク市街を見下ろすマイン川対岸の山上にあり、レジ
          デンツと並ぶヴュルツブルク最大の観光名所となっています。手足を伸ばした亀のような
          主郭を中心に、主に北と西に多くの稜堡が広がる屈指の巨大要塞です。一応、聖職者の
          長たる大司教の館であるにもかかわらず、これほど堅固で無骨な要塞を築くことに異論が
          出ないというのも、何とも不思議な感じです。
           さらに宮殿に囲まれた中庭には「城」にしかないはずの主塔があり、マリエンベルク要塞
          が御殿や城塞、教会、行政府とさまざまな機能をいっしょくたにした、特殊な建造物である
          ことが分かります。
           主郭の中庭や主郭一段先の庭園までは、無料で入れます。主郭への入口であるシェー
          レンベルク門は、15世紀の大司教ルドルフ2世・フォン・シェーレンベルクにちなむもので、
          門を見上げると珍しい鋏の紋章(シェーレンは鋏の意味)がついています。主郭の深井戸
          や聖母マリア教会の奥、そして宮殿内部などは有料のツアーで回る必要があります。宮殿
          についても、見学できるのは兵営や監獄などの軍事施設があった下階部分のみです。まぁ、
          きらびやかな部分を見るのならレジデンツへ行く方が手っ取り早いですが。主郭の宮殿は
          一部が領主館博物館に、副郭の建物はマインフランケン博物館になっています。
           要塞へは、一般的には北麓から出入りするのですが、私は帰りは南側から下りることを
          おすすめします。マリエンベルクの南と東側の斜面はブドウ畑となっていて、南辺から下山
          する道は、このブドウ畑の間をなだらかに抜ける、心地よいのどかなルートです。東麓の聖
          ブルカート教会脇にでますが、この教会は聖マリア教会に次いで古いものだそうです。
 
  
 古マイン橋とマリエンベルク要塞。
南側から望む。 
 北端の稜堡のひとつ。
累々と連なる稜堡。 
 西側に出丸のように突き出して独立した稜堡(内部はトイレ)。
シェーレンベルク門。 
 
 主塔。
 深井戸。105mあるそうです。 
 ブドウ畑を抜ける南側の道。
同上。右に見えるのはマシクリ塔。 
 レジデンツ裏の都城の城壁。


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