ハイデルベルク城
( Heidelberger Schloss )
 別称  : ハイデルベルク宮
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 交通  : 旧市街よりケーブルカー利用。シュロス駅下車。
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           ハイデルベルクの町の名が史料に現れるのは12世紀のことであるが、城がいつ築かれた
          のかについては詳らかでない。1225年に「ハイデルベルクの城(Castrum in Heidelberg)」が
          ヴォルムス司教ハインリヒ2世からライン宮中伯ルートヴィヒ1世に譲渡されたとするのが、
          城に関する初出である。
           1294年までの記録には、ハイデルベルクの城には単数形が用いられていたが、1303年の
          記録には2つの城の存在が記されている。かつては、現在のハイデルベルク城に相当する
          「下の城」が1294〜1303年に築かれたもので、1225年に存在していたのはモルケンクーア
          周辺にあった「上の城」であると考えられていた。しかし、近年の考古学や建築学に基づく
          調査・研究により、「下の城」の築城年代が13世紀前半ごろであると推定されている。
           以後、ハイデルベルク城はライン宮中伯(1356年以降はプファルツ選帝侯)の居城となった。
          1386年には、プファルツ選帝侯ルプレヒト1世によって神聖ローマ帝国内で4番目となる大学
          が創立された。1401年、ルプレヒト1世の又甥ルプレヒト3世は、帝位に選出されてドイツ王
          ルプレヒトとなった(戴冠は果たせなかったため皇帝ではない)。ハイデルベルク城は侯の城
          から王の城となり、その格式にふさわしい宮城として改築された。ルプレヒトの死後、帝位は
          ルクセンブルク家のハンガリー王ジギスムントが継ぎ、プファルツ選帝侯はルプレヒトの次男
          ルートヴィヒ3世が継承した。1415年、ルートヴィヒ3世はジギスムントの命を受けて対立教皇
          ヨハネス23世をハイデルベルク城に幽閉した。翌1416年、ヨハネス23世はマンハイム郊外の
          アイヒェルスハイム城に移送された。
           1462年のバーデン=プファルツ戦争で、プファルツ選帝侯フリードリヒ1世はバーデン辺境
          伯カール1世やその弟のメッツ司教ゲオルク、そしてヴュルテンベルク伯ウルリヒ5世を捕虜
          にしてハイデルベルク城に幽閉した。彼らは多額の身代金や抵当領と引き換えに解放され
          たが、この間満足な食事も与えられず、厳しい監視下に置かれていたとされる。とくに食事
          にパンが供されなかったことについて、フリードリヒ1世は食事に際して城の窓から荒廃した
          領土を3人に見せて、納得させようとしたと伝わる。19世紀の作家グスタフ・シュヴァープは、
          この伝承をもとに詩『ハイデルベルクの食事』を著した。
           フリードリヒ1世の又甥ルートヴィヒ5世の代の1518年、カトリックの総会がハイデルベルク
          で開かれ、問答のためにこの会に呼ばれたルターが自説を熱く論じたとされる。このとき、
          選帝侯の計らいでルターは城内を案内され、友人に宛てた手紙で城の美しさと防衛設備の
          充実ぶりを語っている。ルートヴィヒ5世の弟フリードリヒ2世はルターのアウグスブルク信仰
          告白を受け入れ、ハイデルベルクは宗教改革の一大拠点となった。
           1608年、ときの選帝侯フリードリヒ4世はプロテスタント同盟を結成し、その盟主となった。
          1619年のプラハでの第二次窓外投擲事件を機に宗派間対立が先鋭化すると、ボヘミアの
          プロテスタント貴族はフリードリヒ4世の子フリードリヒ5世をボヘミア王フリードリヒ1世として
          迎えた。しかし、プロテスタント側の連携不足の隙を突かれ、翌1620年の白山の戦いで、
          ボヘミア軍はティリー伯ヨハン・セルクラエスらの率いるカトリック同盟・神聖ローマ帝国連合
          軍に完敗した。失意のフリードリヒ5世を待っていたのは、スペイン軍やカトリック同盟軍に
          よるプファルツ侵攻であった。1622年、セルクラエスやバイエルン公マクシミリアン1世らの
          カトリック軍によってハイデルベルク城は攻囲され、1か月弱の砲撃戦の後に陥落した。
          フリードリヒ5世はオランダへ逃れ、プファルツ選帝侯位と領地はバイエルン公マクシミリアン
          1世に与えられた。
           1633年には、三十年戦争に参戦したスウェーデン軍がハイデルベルク城に攻め寄せ、
          城の裏手のケーニヒスシュトゥールの山上から砲撃を加えて降伏させた。翌1634年には
          帝国軍が奪還を図り、その翌年に城は占領された。
           1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)によって、ルートヴィヒ5世の次男
          カール1世ルートヴィヒがプファルツ選帝侯に返り咲いた。しかし、父がマクシミリアン1世に
          奪われた選帝侯位はバイエルン選帝侯として認定され、カール1世のプファルツ選帝侯位
          は新たに設けられたものである。カール1世は翌1649年にハイデルベルク城に入り、荒廃
          した領内の復興に尽力した。
           1685年にカール1世の子カール2世が嗣子なく世を去ると、遠縁にあたるプファルツ=
          ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムが選帝侯を継いだ。しかし、これに対してフランス王
          ルイ14世は弟のオルレアン公フィリップ1世の妻でカール2世の妹にあたるエリーザベト・
          シャルロッテの相続権を主張した。1688年に、ルイ14世は軍をプファルツ領へ侵攻させて
          プファルツ継承戦争が勃発した。フランス軍は破竹の勢いでラインラントを蹂躙し、フィリップ・
          ヴィルヘルムはハイデルベルク城を放火・破壊して撤退した。翌1689年、フランス軍は一旦
          退却したが、このときに帝国軍の拠点として利用されないように城と町は再度放火・破壊
          された。1691、92年とフランス軍は再びハイデルベルクへと迫ったが、いずれも攻撃には
          至らず撤退している。だが、1693年の侵攻時には再び城と町が占領された。フランス軍は
          城を修築するどころか、逆に前回の撤退時に破壊が不完全であった部分を念入りに爆破
          した。
           1697年のレイスウェイク条約によって、プファルツ継承戦争は終結した。プファルツ領は
          選帝侯に返還されたが、フィリップ・ヴィルヘルムは戦争中の1690年に死去しており、その
          子ヨハン・ヴィルヘルムが選帝侯位を継いだ。ハイデルベルク城については、廃城にして
          谷沿いに新しい宮殿を建てる案や新しい城として全体を建て替える案なども出されたが、
          予算などの問題から応急的な修復が施されたにとどまった。
           1720年、ヨハンの子カール3世は、侯宮と首都機能をハイデルベルクからマンハイムに
          遷した。ハイデルベルクの聖霊教会をカトリックに転向させようとして、プロテスタント市民
          との間に軋轢を生じたためといわれる。
           1743年にカール3世が死去すると、孫婿のカール・テオドールが後継者となった。カール・
          テオドールはハイデルベルクへの再遷都を計画したが、1764年に2度の落雷により城が
          炎上したため、これを神意として中止となった。1777年、カール・テオドールはバイエルン
          選帝侯も継承し、プファルツ選帝侯はバイエルン選帝侯に併合された。侯宮もマンハイム
          からミュンヘンに遷され、ハイデルベルクはますます衰退した。廃墟となった城の石材は、
          他の建築資材として次々と運び出されていった。
           1803年、ハイデルベルクは新しく選帝侯位を獲得したバーデン大公カール・フリードリヒ
          の領地となった。しかし、バーデン政府はハイデルベルク城をあからさまにお荷物扱いし、
          廃墟の撤去を計画した。これに対し、作家のアウグスト・フォン・コッツェブーや文化財保護
          活動家のカール・フォン・グライムベルクは強硬に反対し、とりわけグライムベルクは城内の
          建物に寝起きするなどして抵抗した。おりしくも、ラインロマンティークなどのロマン主義が
          城郭建築の分野でも勃興していた時期でもあり、グライムベルクは観光客の誘致にも尽力
          した。
           19世紀後半に入ると、城の復興が真剣に議論されるようになった。1883年に、バーデン
          政府は「城館建築局(Schlossbauburo)」を設置し、城跡の精密調査が行われた。1890年、
          調査結果をもとに今後の城跡の扱いについて議論がなされ、フリードリヒ館を除いた城域
          全体が、廃墟のまま現状維持という形で保存されるべきとされた。フリードリヒ館だけは
          復元工事が行われ、現在でもこの方針が維持されている。


       <手記>
           ハイデルベルクは、ネッカー川が渓谷部を抜けて平野部に出る喉口に位置し、北西15q
          ほどのところにライン川との合流点であるマンハイムがあります。ドイツ国内屈指の観光
          都市であり、日本に限らず多くの国から観光客が訪れています。ですから、城内や町内の
          観光についてはここで多くを語る必要はないかと思います。
           ハイデルベルク城は、町を見下ろすケーニヒシュトゥール山の中腹、イェッテンビュールと
          呼ばれる山裾の丘上にあります。高い山を背にした中腹という立地は、日本ではたとえば
          龍野城出石城などの近代城郭にみられますが、中世に端を発する古城としては珍しい
          選地であるといえます。そのため、山側と峰続きの東・南と西の一部に堀を巡らせなければ
          ならず、防衛上はとくにすぐれているとは言い難いように思います。
           城へは城下町から歩いて登ることもできますが、ケーブルカーを利用するのが便利です。
          途中のシュロス駅で降りて堀を渡ると、城の外郭(フォアホーフ)となります。入ってすぐ
          左手にはシュトゥックガルテンがあり、こさっそく市内の眺望が楽しめます。その北端には
          ディッカー塔とイギリス館の廃墟があります。外壁のみが残るイギリス館は、フリードリヒ
          5世の妻でイングランド王ジェームス1世の娘であるエリザベス・スチュアートにちなむもの
          ですが、堀を埋めて建てられているため、城の防御を犠牲にして建造された建物であると
          みなされています。
           外郭は無料ですが、主郭へ入るにはチケットが必要です。復元されたフリードリヒ館に
          入るには別途ツアーに参加する必要があります。ツアー料金の必要ない建物としては、
          フリードリヒ館の隣の大樽館があります。
          ここにはその名の通り1751年に作られた巨大なワイン樽があります。また、フリードリヒ館
          の脇を抜けて北側へ下りると、腰曲輪とカールス砦跡があります。ここは周囲に遮る建物
          がないため、絶好の眺望スポットとなっています。
           ハイデルベルク城の大きな見どころであり特色の1つは、城跡の大部分が廃墟のままで
          保存・維持されているという点にあると思われます。とりわけ主郭の南東と南西の2隅の
          崩れたままの塔は何ともいえない味を出していて、南東隅の火薬塔に至っては、崩れた
          壁が塔にもたれかかったままの状態で保存されています。この火薬塔については、文豪
          ゲーテも惚れ込んだといわれています。
           ハイデルベルクは世界的な観光地であり、私が訪れたときには日本人よりも中国人の
          ツアー客がダントツで多かったように思います。観光地化がますます進むなかで、廃墟の
          ままで保存が図られ続けているというのは、日本ではほとんど考えられない奇跡のように
          すら感じます。
           蛇足ながら、日本ではハイデルベルク城と書かれますが、ドイツ語を直訳するなら本当は
          ハイデルベルク宮(殿)とするのが正しいと思われます。
 
 
 夕映えのハイデルベルク城。
外郭の空堀。 
 シュトゥックガルテンの張り出し部。
ディッカー塔(「重厚な塔」の意)。 
 イギリス館跡の廃墟。
主郭の堀。手前の廃墟は南西隅の牢獄塔跡。 
 火薬塔跡の廃墟。
 主郭東辺の薬局塔跡。 
 下部はドイツ薬業博物館。 
 フリードリヒ館。
大樽館の大樽。 
 腰曲輪とカールス砦跡(奥)。
城からの眺望。 


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