丸山御所(まるやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 吉良長氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : 名鉄西尾線西尾駅からバスに乗り、 「横町屋敷」下車徒歩5分 |
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<沿革> 足利一門吉良氏初代吉良長氏の隠居所と伝わる。長氏は三河守護を務めた足利義氏の 庶長子で、家督は継がず吉良荘地頭として分家した。『吾妻鏡』には仁治二年(1241)まで 鎌倉で供奉するようすが記されていることから、これ以降に吉良荘に下向したものと推測 されている。 比定地近くにある実相寺は、長氏の嫡男満氏によって文永八年(1271)に創建された。 満氏は弘安八年(1285)の霜月騒動の際に安達氏方につき、敗れて自害した。このとき、 吉良荘がいったん長氏に返還されたのち、満氏の子貞義が長氏の養子となって継承して いる。このことから、長氏は騒動以前に家督を譲っていたものとみられる。 長氏没後の丸山御所については詳らかでない。 <手記> 実相寺の東の西野町保育園および正念寺付近に丸山という小字があり、その南東には 御所ノ下という小字もあることから、丸山御所はこのあたりにあったものと推察されます。 現場は東と南にごく浅い谷戸の入り込む緩やかな丘の角で、とりたてて城館跡らしいもの は見当たりません。 吉良氏の居館については、西尾城の旧名を西条城として、これに充てる考えが一般的 のようです。ですが、西尾城周辺には吉良氏ゆかりの遺物がほとんどみられません。他方 で、実相寺は吉良氏の菩提寺ですし、周辺には「屋敷」とつく小字が多数点在しています。 これらを一族や家臣団の根古屋が広範囲に広がっていた証左とすれば、吉良氏の本拠は もともとこちらにあり、少なくとも戦国時代に入るくらいまでは、当主の居館も丸山にあった と考えても不思議ではないでしょう。長氏が丸山御所に入ったのは、決して隠居して余生を 過ごすためではなく、吉良荘の経営に主体的に携わっていたものと、個人的には推測して います。 |
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小字「丸山」付近現況。 | |
正念寺。 | |
実相寺釈迦堂。 本堂は工事中でした。 |