増田駿河守屋敷(ますだするがのかみ)
 別称  : 増田氏館
 分類  : 平城
 築城者: 増田氏
 遺構  : なし
 交通  : 東急田園都市線・JR南武線武蔵溝ノ口駅徒歩5分


       <沿革>
           増田駿河守満栄は、一般的には北条氏綱に仕えた在地領主とされる。『新編武蔵国風土記稿』
          の橘樹郡清沢村(現在の高津区千年)の項によれば、満栄の孫にあたる増田内膳正孝清(信忠)
          の代に、増田家は同村に移り住んだとされる。千年にある能満寺の不動堂には、孝清坐像と伝わ
          る木像があり、その内部に納められた銘札によれば、孝清は永禄十二年(1569)に生まれ、寛永
          十年(1650)に没したとある。
           他方で、下作延の圓福寺は、大永二年(1522)に満栄が建立したものと伝わる。これが正しけれ
          ば、孝清を満栄の孫とするのは、あり得ないことではないが疑問が残る。永禄二年(1559)成立の
          『小田原衆所領役帳』には、「増田」が作延に70貫文を領するとあるのみで、当時の増田氏当主の
          名は明らかでない。


       <手記>
           下作延1丁目の住宅街の一画が、増田氏の屋敷跡とされています。かつては三方を堀で囲まれ
          ていたということですが、すっかり宅地となっていて、城館跡を示すようなものはありません。古地図
          によると、屋敷跡の北・東・西の三方は峰に囲まれ、残る南辺には平瀬川が流れていたようです。
          現在の平瀬川は、付け替えにより大きく河道が異なっていて、屋敷跡の南辺に旧河道と思われる
          空き地が残るのみです。
           この比定地については、一方で江戸時代の下作延村領主であった旗本戸田氏の屋敷跡とする
          説もあるようです。その場合、増田氏の屋敷跡を転用したか、増田氏館は別の場所にあったことに
          なります。比定地の西の、増田駿河守の創建とされる圓福寺はやはり山の窪地にあり、在地領主
          の館地形として充分あり得るように感じられます。ただの直感ですが、こちらも比定地の1つに数え
          てもよいような気はしました。

           
 増田駿河守屋敷比定地現況。
屋敷跡南辺の(おそらく)平瀬川旧河道。 
 圓福寺。


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