又野城山(またの) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : 削平地か | |
交通 : JR横浜線・相模線/京王相模原線橋本駅よりバス 「三ケ木」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 三ケ木神社背後の山は「城山」と呼ばれており、神社の西側一帯には原替戸の字が残る。 この地に城館があったことは間違いないと思われるが、史料にはみられない。 永禄二年(1559)成立の『小田原衆所領役帳』によれば、野呂左京亮が三加木村に14貫 文余を有していたとある。この野呂氏との関連も考えられるが、詳細は不明である。 <手記> 又野城山は、又野と三ケ木の境を成す山です。呼称は『日本城郭大系』に従っていますが、 又野の集落にはやや遠く、原替戸の字のある三ケ木側が大手とみられ、また山腹にあるの は三ケ木神社ですから、三ケ木城山と呼ぶ方が妥当なような気がします。相模原市の遺跡 地図には記載がありません。 城山へは、西麓の神社参道または東側の鉄塔の保守点検道から登ることができます。 高低差が少なく楽なのは東側からの道ですが、上述の通り大手は西側と思われますので、 大した高さの山でもありませんから、臨場感や利便性を考えるとこちらから登ることをお勧め します。 山頂には、電線鉄塔とは別に何かの電波塔があり、その前庭のような形でやや広い空間 があります。その周囲をぐるり遊歩道が巡っています。したがって、旧地形をとどめているか どうかは怪しいところです。ちょうど北・南・東の三方に細尾根が伸びていますが、堀切など の造作の跡は認められませんでした。ただ、各尾根の間の斜面は比較的急で、人工的に 切岸にされている可能性もないとはいえません。西側の斜面はもっとも急崖となっていて、 近年植林されたのか眺望が開けています。 三ケ木神社は南の尾根の付け根下あたりに位置しています。だいぶ斜面を削ったところ に本殿が埋め込まれるような形で建てられており、神社のためにわざわざそこまでするか と少々不思議に感じます。境内は2段になっていて、下段もかなりの広さに削平されており、 両段の間も、結構な高さと傾斜に削られています。あるいはここにも何らかの城館施設が あったのではないかと想像が掻きたてられますが、山頂の造作がほとんどみられないこと と比較すると、微妙なところです。 参道下には、清らかな沢水が南から山麓を洗いながら北へと流れています。城山山頂の 真西麓付近で、この谷戸は突然幅10m位に拡張します。沢はその山際を細いままで流れ、 空いた土地は畑となっています。この畑地は、明らかに人工的に掘り込んで作られたもの です。どうみても規模の大きな空堀という感じなのですが、城山にこれに匹敵するほどの 遺構が見られません。 ここで、城山の西麓一帯の集落は原替戸の字で呼ばれています。これを、山上の城に 対しての「原」の「替戸」、すなわち山麓の居館と考えることもできるのではないかと考えて います。つまり、先の畑地を背にする形で城館が存在したとすれば、この掘り込みを空堀と みることも可能なのではないかと推測しています。『大系』によれば、城山西側の「急崖下 の平地」を「馬場」と呼んでいるとあります。この平地が具体的にどこを指すのかは詳らか ではありませんが、この空堀様の畑地である可能性は高いのではないかと思われます。 『大系』では又野城山を烽火台と考えていますが、津久井郡に数多くあったとされている 他の烽火台比定地をみてみると、たいていはかなり高い山の上にあったことがわかります。 原替戸に館があったのではないかという私の推測がもし正しければ、三ケ木周辺を治める 在地領主がいて、又野城山はその領主の簡単な詰城だったのではないかと考えられます。 もちろん、危急時には烽火台としての役割も果たしたでしょうが。 |
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山頂のようす。 | |
山頂から相模湖方面を望む。 |
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三ケ木神社の2段削平地。 | |
西側山麓の空堀状の人工地形。 |