俣野景久屋敷(またのかげひさ) | |
別称 : 俣野五郎景久屋敷 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 俣野景久 | |
遺構 : なし | |
交通 : 戸塚駅または藤沢駅よりバス、 「鉄砲宿」下車徒歩5分 |
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<沿革> 平安末期の武士俣野五郎景久の館跡とされる。景久は桓武平氏良文流鎌倉氏の 庶流大庭景宗の子で、相模国鎌倉郡俣野郷に入植して俣野氏を称した。 治承四年(1180)に源頼朝が伊豆で挙兵すると、景久と兄の大庭景親は平家方に 与し、石橋山の戦いで岡崎義実の嫡男佐奈田義忠を討ち取る功を挙げた。しかし、 同年中に頼朝が房総半島で再起し、平家の討伐軍も富士川の戦いで武田信義らに 敗れると、景親は降伏したのち処刑され、景久は落ち延びた。早ければこの時点で 主を失った景久の屋敷は廃されるか接収されたものと思われる。景久自身は、寿永 二年(1183)の倶利伽羅峠の戦いで討ち死にしている。 <手記> 景久の屋敷跡伝承地には、東俣野と上俣野の2か所があります。東俣野について は、『新編相模国風土記稿』の東俣野村堀込の項に「当所に住する」とのみ記され ています。『皇国地誌』には「家器及び古瓦片」が出土したとあるものの、『日本城郭 大系』では「その時代に城地に古瓦を出土するのは異例」として、城館よりも寺院の 可能性を推測しています。 東俣野の館跡比定地とされる場所は、現在は横浜市が管理する俣野別邸庭園と なっています。俣野別邸は昭和十四年(1939)に住友財閥家が建設したモダニズム 建築で、重要文化財に指定されていたものの平成二十一年(2009)に不審火により 焼失しました。同二十八年(2016)に再建され、庭園とともに整備されて一般に公開 されています。 別邸は和洋折衷のデザインが美しく、また丘陵の斜面を活かした庭園もすばらしい のですが、館跡としては偲べるものはなにもありません。住友家の邸宅となった時点 で谷戸も大きく改変されていると思われ、痕跡を見つけることはおろかかつての地形 を推し量るのも困難です。 |
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俣野別邸。 | |
別邸庭園の斜面。 |