松ヶ崎城(まつがさき)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 山本氏ないし松ヶ崎郷民
 遺構  : 土塁、堀跡か
 交通  : 叡山電鉄宝ヶ池駅または地下鉄烏丸線国際会館駅
      徒歩20分


       <沿革>
           天文五年(1536)の天文法華の乱に際し、地元郷民が立て籠ったことが知られている。『鹿苑
          日記』によれば、それまで法華門徒側であった土豪山本氏と渡辺氏が延暦寺山門側に寝返り、
          同年七月二十二日に松ヶ崎城を攻め落とした。
           山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」(『京都大学人文科学研究所調査報告 第
          53号』)では、黒川道祐が著した『近畿歴覧記』のなかの「北肉魚山記」にある「松ヶ崎ニ貝吹山
          トテ城跡アリ コレマタ山本氏斥候ノ所ナリト」とする記述を紹介している。貝吹という表現から、
          連絡用の城であることが推測されるが、天文法華の乱の前後いずれの話なのかは定かでない。
           山本氏は、小倉山城を居城とする松ヶ崎北方岩倉の土豪であり、源新羅三郎義光を祖とする
          とされる。天正元年(1573)に将軍足利義昭が織田信長に対して挙兵した際、義昭に呼応した
          ため、山本氏は岩倉を失い没落したが、松ヶ崎城がいつごろまで存続したのかは不明である。


       <手記>
           松ヶ崎城は、宝ヶ池の南にのっぺりと横たわる山塊の東端の峰にあったとされています。北麓
          の公園からは、フェンスがぐるりと巡っていて登ることができません。東麓及び南麓は高野川に
          洗われた急崖となっており、こちらから登るのもほぼ不可能です。上の地図にある東山山頂から
          北にのびる尾根筋の道か、南西から登る道を利用しなければならず、注意が必要です。
           城址とされる峰の頂上から尾根先へと進んでみても、とりたてて削平されたようすはなく、自然
          地形が延々と続きます。峰の根元に尾根筋を断ち切る堀と土塁と思しき箇所が認められるのが、
          唯一の城郭らしい部分といえます。これでは、いくら小領主の伝えの城に過ぎなかったとしても、
          城としての造作が足りなさすぎます。おそらくは、地元の郷民が乱を逃れるために一時的に逃げ
          込んだものであり、尾根筋に堀を一本掘るのがせいぜいだったということなのでしょう。その後、
          山本氏が松ヶ崎城を取り立てたとしても、改修を加えた形跡がない以上、法華一揆が収まるまで
          のごく短期間しか使用されなかったものと推測されます。

           
 高野川越しに松ヶ崎城址を望む。
松ヶ崎城山山頂のようす。 
 尾根の付け根の堀および土塁跡か。
同上。 


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