姪浜城(めいのはま)
 別称  : 鷲尾城、探題城、浦城
 分類  : 山城
 築城者: 鎮西探題
 遺構  : 削平地か
 交通  : 地下鉄空港線室見駅徒歩15分ほか


       <沿革>
           文永十一年(1274)・弘安四年(1281)と二度の元寇の後、鎌倉幕府執権北条氏は外国に
          対する防備と九州の御家人統率を目的として鎮西探題を設置した。姪浜城はこの鎮西探題
          によって築かれたとされるが、不明な点も多い。
           元弘三年(1333)、鎌倉幕府の滅亡に際して、鎮西探題も少弐貞経や大友貞宗、島津貞久
          らに攻め滅ぼされた。時の探題北条(赤橋)英時ら一族は、博多で自害したとも姪浜城で討ち
          死にしたともいわれる。
           姪浜城は鎮西探題とともに滅んで廃城となったとも、続く室町幕府の九州探題にも取り立て
          られたともいわれるが判然としない。

          
       <手記>
           姪浜城の位置について確定はしていないようですが、『筑前国続風土記』に「浦山の巽に
          当りて 愛宕の社に近く 南の方に出たる山有 其上に平地有 此所則探題の城址也」とある
          ことから、愛宕神社から茶屋を挟んだ南東の峰と考えられています。ここには昭和三年(19
          28)に日本で2番目につくられたロープウェイが戦中の金属供出まで存在し、今は頂上駅の
          乗降場の基壇コンクリートがわずかに残っています。
           たしかに周囲は平場になっているのですが、城のものかロープウェイ開発によるものかは
          わかりません。平場は愛宕神社へ下る手前で段築になっていますが、やはり遺構かどうか
          は判別不能です。
           鎌倉時代後期の城ですから、山のうえに平場を設けて立て籠もる程度の城砦だったので
          しょう。ただし、この峰は元寇防塁の築かれた海岸側の眺望に難があり、鎮西探題が外国
          の侵攻に備える目的もあったとすれば、ここだけを城に取り立てるのは疑問です。おそらく、
          当時は鷲尾神社と呼ばれていた愛宕神社の峰に付随する形で、平場を拡張したものでは
          ないかと推察されます。実際、愛宕社の門前には1段下がって腰曲輪のような平場があり
          ますが、城の遺構かどうかはやはり不明です。
           ちなみに、鎮西探題の館について、鷲尾城の位置ではなく博多の市中あったとするのが
          妥当という説があるようです。とはいえ、そもそも山上に探題館があったとみるのが不自然
          で、姪浜城はあくまで戦時の詰城とみるべきでしょう。平時の館については、博多か姪浜か
          という議論はあるとしても、少なくとも平地にあったことを前提とすべきと思われます。


           
 姪浜城跡とされる平場。
 右手奥にロープウェイ乗降場跡が見えます。
ロープウェイ乗降場跡。 
 平場の愛宕神社方面側。
平場の愛宕神社方面側の段築。 
 愛宕神社。
門前1段下の腰曲輪状の平場。 
 愛宕神社北西の展望台からの眺望。


BACK