三ヶ島堀之内(みかじま)
 別称  : なし
 分類  : 平城か
 築城者: 不明
 遺構  : 不詳
 交通  : 西武線所沢駅からバスに乗り、
      「中氷川神社」下車


       <沿革>
           所沢市西部の旧三ヶ島村に堀之内の地名が残り、城館跡の可能性が考えられる。
          地区内には「武蔵三氷川」に数えられる中氷川神社がある。同社の社家は、中家と
          と宮野家(現在は三ヶ島に改姓)の2家が代々務めた。前者は、現地説明板によれば
          古尾谷城主中資信の後裔とされる。ただし、資信が16世紀の武将であるのに対し、
          同社神職中家は文治二年(1186)にはじまるとあり矛盾が生じている。
           中氷川神社と堀之内の地名をそのまま結びつけることはできないが、古くから当地
          にかかわる有力な一族があったことをうかがわせる。


       <手記>
           完全に地名だけが頼りの推測地ですが、個人的に気になっているところが2か所
          あります。1つは上述の中氷川神社で、同社境内は2つの沢谷戸に挟まれた細長い
          台地上にあり、開発領主の館が置かれたとしても、不自然ではありません。境内の
          周囲には、城館由来とするのはかなり怪しいですが、ごく低い土塁が巡っています。
           もう1つは、神社南西の丘の上に立つ金仙寺です。寺の周囲は字を「堂入」という
          そうで、堂は同寺を指すとも考えられますが、「城入」の転訛と見ることも可能かと
          思われます。中氷川神社の南側を洗って新河岸川へ至る砂川堀は、寺の南麓の
          堂入沼を水源としていたといました。今でこそ小さな調整池があるだけですが、西に
          「八幡湿地」や「トンボの湿地」が残るようにかつては堂入沼も湿地帯だったようで、
          この水源を扼する城館があったと考えることも、十分にできるでしょう。
           寺伝によれば、金仙寺は鎌倉時代以前の開基で、もともとは今より西方にあった
          そうです。その後、経緯は詳らかではありませんが、天正十八年(1590)に現在地
          に移って「再建」されたとあります。天正十八年といえば小田原の役で後北条氏が
          滅亡した年であり、これにより当地にあった領主とその城館も滅んで寺が移転した
          とすれば、かなり勝手読みの推論ではありますが、辻褄は合っているように思うの
          です。

           
 金仙寺。
中氷川神社。 
 神社境内の土塁状地形。


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