水口館(みなくち)
 別称  : 水口城、水口居館
 分類  : 平城
 築城者: 大俵康清
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR東北本線西那須野駅からバスに乗り、
      「那須赤十字病院」下車徒歩3分


       <沿革>
           明応三年(1494)に、上那須家重臣大俵康清によって築かれたとされる。大俵氏は武蔵
          七党の1つ丹党の流れを汲む安保氏の庶流とされ、初代大俵忠清が下野国大俵に住して
          那須家に仕えたのがはじまりとされる。康清は忠清の4代子孫とされるが、水口館以前の
          居城については定かでない。
           康清の孫資清は、永正十一年(1514)に上那須家当主那須資永を攻め滅ぼし、那須氏
          を下那須家に統一した。大俵氏は那須七騎に数えられるほどに成長したが、増長を妬ま
          れて同じ七騎の大関宗増に讒言され、同十五年(1518)に失脚し、国を逐われて出家して
          いた兄のいる越前国永平寺へ去った。
           24年後の天文十一年(1542)、資清は那須へ帰還し、宗増の子増次を急襲して敗死に
          追い込んだ。大俵氏は、大関氏には長男の高増を、またやはり七騎の福原氏に次男の
          資孝を養子として送り込み、那須七騎のうち3家を掌握するに至った。資清が越前にいる
          間、水口館は一次的に廃館となっていたとされるが、詳細は不明である。
           天文14年(1545年)、資清は大田原城を築き、新たな居城とした。これにより、水口館は
          廃館となったとされる。また、このときに姓を大田原氏と改めたとされるが、資清の父康清
          の代のことともされる。


       <手記>
           蛇尾川と巻川に挟まれた中田原工業団地北端に那須赤十字病院があり、その向かい
          の薬局裏が水口館跡です。「水口居館跡」として市の史跡に指定されており、道路沿い
          に説明板が設置されています。その横には「町島豊後守発祥之地」という石碑があるの
          ですが、これが誰なのかは分かりませんでした。
           周囲に対して高低差はほとんどなく、遠目にも土塁が見て取れることから、平地の居館
          としては遺構がかなり良好に残っているといえます。方形に近い主郭の北半分の土塁が
          残存し、北東隅は鬼門除けの隅欠けとなっています。周囲の堀跡も一段低い畑(?)と
          なっていて、概要が容易に把握できます。
           周辺には同様の堀や土塁で区画された曲輪が並んでいたようで、防御力に優れている
          とは言い難いですが、大俵氏の権勢を推し量るには十分といえるでしょう。

           
 本丸のようす。
本丸土塁上から西方を望む。 
 本丸北西隅の裏門跡。
本丸南辺の台門(表門)跡。 
 本丸と二の丸の間の堀。


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