大田原城(おおたわら)
 別称  : 龍体城、龍城
 分類  : 平山城
 築城者: 大田原資清
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、門跡
 交通  : JR東北本線西那須野駅からバスに乗り、
      「龍城公園前」下車すぐ


       <沿革>
           大田原資清が天文十四年(1545)に築き、水口館から居城を移したとされる。大田原氏は
          那須七騎と呼ばれる那須氏の重臣で、武蔵七党の1つ丹党の安保氏を出自とし、那須郡
          大俵に住して那須氏に仕えた大俵忠清を祖とする。
           資清は忠清の6代子孫とされ、永正十五年(1518)に同じ那須七騎の大関宗増に讒言され
          て所領を逐われたが、天文十一年(1542)に帰還して宗増の子の増次を襲い敗死させた。
          その後、長男高増を大関氏に、次男資孝をやはり七騎の福原家に養嗣子として送り込み、
          那須家中の実力者にのし上がった。大田原城へ移った際、姓と地名を大俵から大田原へと
          改めたとされる。
           資清の三男綱清の子晴清は、天正十八年(1590)の小田原の役において、独自に豊臣
          秀吉に拝謁した。逆に、主君の那須資晴は参陣しなかったため、役後に那須家は改易と
          なり、大田原家は所領7100石の独立領主となった。
           関ヶ原の合戦後の慶長七年(1602)、大田原家は4500石を加増され、それ以前の加増と
          合わせ、晴れて1万2400石の大名に列した。以後、大田原城は大田原藩の府城として、
          途切れることなく続いた。ちなみに、資清の子の三兄弟が継いだ3家は、いずれも大名や
          交代寄合として江戸時代を生き残っている。
           幕末の慶応四年(1868)五月、大田原藩は新政府軍に従ったことから、旧幕府軍1千人
          による攻撃を受けた。城内の藩兵はわずかであったが、三の丸に保管されていた弾薬が
          爆発し、これに驚いた両軍がともに城外へ退いたとされる。ほぼ同じくして白河小峰城が
          新政府軍に奪還されたことから、旧幕府軍は攻略を断念して撤退した。


       <手記>
           蛇尾川沿いのに延びる細長い丘陵の先端に位置し、今は龍城公園として市民の憩いの
          場となっています。旧居城の水口館とは1kmほどしか離れておらず、中世前期から城館が
          あってもおかしくない地勢ですが、資清の代になってようやく築かれたのは、大田原氏が
          新たに権勢を得たことを内外に示す意味合いもあったものと推測されます。
           本丸とその南北前後に曲輪が付属する構造で、資料によってそれぞれの呼称は異なり
          ますが、堀切と土橋で隔てられた南側の曲輪を二の丸とする点では概ね一致しています。
          北側を三の丸とした場合、そのさらに1段下に北曲輪があり、そこまでが主城域とみられ
          ます。北曲輪は畑となっていますが、先端付近には土塁が望め、その下は旧奥羽街道と
          なっています。
           二の丸は南西端に虎口が開いており、その下には藩主居館がありました。山城部には
          ほとんど石垣は用いられていなかったようで、江戸時代以前のようすを大部分とどめて
          いるのではないかと思います。とすると、とんでもなく状態のよい中世城館跡とみることも
          できるでしょう。大規模かつていねいに保存されている城跡として、とても見ごたえがあり
          ました。

           
 本丸のようす。
本丸土塁上から西方を望む。 
 本丸北西隅の裏門跡。
本丸南辺の台門(表門)跡。 
 本丸と二の丸の間の堀。
二の丸のようす。 
 二の丸南西隅の門跡。
二の丸の南に続く腰曲輪。 
 本丸東辺下の空堀。
本丸北側下の三の丸。 
 三の丸下の北曲輪。
 奥に土塁が見えます。
主城域の表門となる坂下門跡。 
 坂下門脇の三日月堀。


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