湊山城(みなとやま)
 別称  : 港山城
 分類  : 平山城
 築城者: 河野氏
 遺構  : 削平地、土塁
 交通  : 伊予鉄道高浜線港山駅徒歩5分


       <沿革>
           築城の経緯は諸説あり定かでない。もっとも早いものでは、河野通信が平安末期に
          築いたとする説がある。現地説明板には建武年間(1334〜37)に河野通盛が築いた
          とあるが、論拠は不明である。
           15世紀に河野氏分家の予州家当主河野通春が又従兄弟の本家河野教通と争って
          いたころには、湊山城が通春の居城だったとされている。したがって、遅くともこのとき
          までには存在していたことになる。
           いずれにせよ、河野氏の水軍の拠点として築かれたことは疑いがない。通春は文明
          十四年(1482)に湊山城で病没したとされるが、城の北麓で教通方と戦い、流れ矢に
          当たって討ち死にしたとも伝わる。跡を子の通篤が継いだが、予州家は次第に没落し、
          湊山城は本家によって攻め落とされたとされる。その後の予州家の扱いについては
          定かでない。湊山は忽那氏を中心とする河野水軍の拠点となり、湊山衆が形成された。
           天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉の四国平定戦において、湊山城は豊臣方の
          小早川隆景に攻め落とされた。河野氏は改易され、城もそのまま廃されたとされる。


       <手記>
           松山の市街は、意外と海から少し離れています。河野氏の時代から戦後まで、一貫
          して湊山城の麓の三津港が道後平野の海の玄関口でした。今日、狭義に「港山」と
          呼ばれる山は湊山城のひとつ隣なので、注意が必要です。港山駅から南に向かう道
          はこの2つの山の間を抜けますが、その中途に城跡の説明板と入口があります。
           湊山城は山頂に杵状に2つの曲輪が並び、そこから東側に雛壇状に曲輪が連なる
          構造をしています。入口からまっすぐ登ると、杵状の曲輪のうち付け根側の方に容易
          に到達します。先端側の方は藪に埋もれていてまったく見えません。
           頂上の曲輪はきれいに削平・整備されていて、海の眺望も素晴らしいのですが、
          そのために重機道をこしらえたらしく、雛壇状曲輪群のど真ん中を無残にも貫通して
          います。説明板には石積みも残るとありますが、無遠慮に道を通して土塁が崩れた
          のか、蛇籠があちこちに積まれていてどれが遺構なのか判別が困難な状態になって
          しまっていました。まだ工事は途中だったようですが、その後どうなったのか気になる
          ところです。
           ちなみに、城の麓で三津浜湾を横切る「三津の渡し」は、河野通春の頃にまで遡る
          古い歴史をもつものだそうです。現在は市道扱いなので、なんと渡し賃は無料です。
          片道5分程度ですので、城とともに歴史を歩んできた渡し船も体験することをおすすめ
          します。

 三津の渡し船より湊山城址を望む。
登城口の説明板。 
 山頂の曲輪のようす。
この藪の奥に山頂先端側の曲輪があります。 
 山頂からの眺望。目の前の山は興居島。
土塁か。 
 同上。
石積みか。 
 おまけ:三津の渡し


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