府中城(ふちゅう)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 不明
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道本線垂井駅下車徒歩20分


       <沿革>
           垂井町府中は、律令制における美濃国国府が置かれた地である。正確な国府の位置は
          いまだ明確ではないが、近年の発掘調査により御旅神社周辺が中心であると推定されて
          いる。御旅神社は美濃国一ノ宮南宮神社の総社であったともいわれる。
           府中城は現在の安立寺周辺にあったとされるが、遺構などは見つかっていない。歴史に
          ついてもはっきりしたことは分かっていないが、一説には西美濃四人衆のひとり不破氏が
          居城としていたとされる。不破氏の出自については、百済系渡来人後裔説や源姓説など
          諸説ある。不破氏府中城主説によると、その祖は山城国の住人松井蔵人直家とされる。
          直家は鎌倉時代末期に不破郡府中村に移住し、不破氏を称したといわれる。直家子孫の
          孫左衛門道広が戦国期に西保城に移るまで、不破氏は府中村に住したとされる。
           この説が正しければ、府中城は西保城以前の不破氏の居城であったものと推察される。
          道広の孫が織田氏に仕えた不破河内守光治とされるが、光治以前の不破氏については
          ほとんど不明といわざるを得ない。
           光治は美濃斎藤氏の滅亡後は織田信長に仕え、天正三年(1575)に越前国龍門寺城
          を与えられ、府中三人衆と呼ばれた。同八〜九年(1580〜81)ごろに没し、後を子の直光
          が継いだ。同十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れると、直光は前田利家に
          仕えた。遅くともこのときまでに、府中城は廃されたものと推測される。


       <手記>
           国府を御旅神社周辺、府中城を安立寺周辺と比定すると、城は国府の北東に位置する
          ことになります。一帯は南に相川と垂井宿を望む扇状地状の傾斜地で、古来より要地で
          あったことはうかがえます。
           城にまつわる史料がなく、実在したのかも不明です。ただこの地区を歩いてみると、どの
          家も低い石垣を垣根代わりに巡らし、いたるところに古井戸が散見され、館程度の存在を
          想定することは可能と思われます。


           


府中城周辺。現安立寺。


BACK