古城(こ)
 別称  : 神子柴城
 分類  : 平山城
 築城者: 箕輪義俊か
 遺構  : 堀
 交通  : JR飯田線田畑駅徒歩25分


       <沿革>
           『南箕輪の史跡』によれば、文明年間(1469~87)に木曽義仲の後裔と称する箕輪
          小太郎義俊・同刑部義嶺が居住していたと伝わる。箕輪氏および古城について、それ
          以外の事柄は不明である。


       <手記>
           南箕輪変電所背後の丘陵先端が、古城跡とされています。地図のとおり、西側から
          林を抜ける道が通じているようです。ただ、麓から見上げると、変電所裏から登る道が
          が見えたため、ダメ元で行ってみました。その道は民家の敷地を抜けないと行けない
          のですが、運よく住民の方がいて、許諾を得て登ることができました。
           『日本城郭大系』や『南箕輪の史跡』などでは、遺構はないとされていますが、私が
          見たところ、峰先の北辺にはっきりした堀切跡が、付け根側にも浅い堀跡地形が認め
          られました。北側は堀とは別に深い谷戸が切れ込んでいて、北辺の堀切はその谷に
          えぐられた張り出し部分を切り離すような格好となっています。切り離された先は出丸
          とも思われますが、藪化していて踏査は困難でした。
           付け根側も、峰続きを切断する堀切のようになっていて、重機道と思われる土橋で
          一部埋められていますが、人工地形であることは間違いないでしょう。南辺は緩やか
          な斜面で、切岸に加工されているようすは、はっきりとは見られませんでした。
           このように、三方を堀と斜面に囲まれている構造が明確に見て取れることから、ここ
          が古城跡とみて間違いないでしょう。諸資料に遺構なしと書かれているのが不思議な
          くらいです。
           他方で、規模はかなり小さく、造作も甘く、文明年間の築城というのは充分に肯んじ
          られるところです。箕輪氏が実在したかは別として、どこか変電所周辺に土豪の館が
          あり、その詰城として設けられたと考えるのが妥当と思われます。

           
 古城跡を見上げる。
中心部のようす。 
 付け根側の堀跡。
同上。 
中ほどは土橋状に埋まっています。 
 北辺の堀切。
北辺の切れ込んだ谷戸。 
 南辺の斜面。
先端側のようす。 


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