三重生城(みお) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 川副氏 | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : JR湖西線近江安曇川駅よりバス 「三重生」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 正法寺の縁起によれば、三重生は川副氏の所領であったとされる。ただし、川副氏の出自について は不明である。正法寺は三重生城主川副秀政の菩提寺とされ、秀政は天文五年(1536)に没したと 伝えられている。 永禄十一年(1568)、織田信長が上洛の軍を起こすと、秀政の子政義は六角氏に属して城に立て 籠もったが、翌十二年(1569)に柴田勝家らの軍に攻められ滅ぼされたとされる。 その後の川副氏および三重生城については不明である。 <手記> 正法寺一帯が三重生城址です。本堂の西側に、高さ2mは超える大きな土塁が残っており、周辺の 郷城のなかでは、もっとも豪壮な遺構と思われます。土塁の西側スレスレに新道が走っていますが、 建設によって土塁が破壊されず、心から良かったと思います。この土塁は、北西と南西の隅の折れが 残っており、これによって城の大まかな規模をうかがい知ることができます。 また、正法寺と北西の三重生神社の間にも城郭関連の小字が点在し、『中世城館調査報告書集成』 では、正法寺の北50mほどのところにも土塁状の遺構があったとする地元の古老の話を載せています。 正法寺の三重生城とは別にもう1つ城館が並立していた、あるいは、三重生城は三重生神社のあたり までを城域とする広大な城であったといった見方もできますが、詳しいことは分かりません。 |
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三重生城址土塁南西隅をのぞむ。 | |
西辺土塁の真ん中付近。虎口跡か。 | |
土塁北西隅のようす。 |