美尾屋十郎広徳館
(みおのやじゅうろうひろのり)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 美尾屋広徳か
 遺構  : 堀
 交通  : JR川越線/東武東上線川越駅
      またはJR高崎線桶川駅よりバス、
      「牛ケ谷戸」下車徒歩10分


       <沿革>
           平安末〜鎌倉時代の武士美尾屋(みおのや/みおや)十郎広徳の館跡と伝わる。
          美尾屋(水尾谷)氏の出自については明らかでなく、『吾妻鏡』の奥州藤原氏攻めの
          段に水尾谷十郎の名がみられる。『平家物語』では、平家方の藤原景清が源氏方の
          美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引きちぎるという「悪七兵衛景清錣引き」の逸話に
          登場する。
           伝承によれば、奥州へ落ち延びた源義経を追って、文治五年(1189)に紀伊熊野の
          鈴木重家が「田木の吉田(現東松山市)」まで来たところ、大雨による河川の氾濫で
          足止めを余儀なくされた。重家はこの地で友人の美尾屋十郎に我が子を預け、十郎
          はその子を養子として家を継がせたとされる。その子孫は3代まで美尾屋氏を称した
          が、4代目で鈴木氏に復したと伝わる。そのため現在の広徳寺の大旦那に鈴木姓は
          みられるものの、美尾屋姓はないのだとされる。
           広徳寺の大御堂は、北条政子が十郎の冥福を祈って建立したものと伝わる。現存
          の建物は室町時代後期の築と推定されているが、館および領主としての鈴木氏の
          動向については定かでない。


       <手記>
           館とされる広徳寺の周辺には、度重なる河川の流路変更によって形成されたもの
          と思われる複雑に屈曲した地形がみられます。水尾谷(美尾屋)という苗字は、この
          地形から生じた地名にちなんでいるのでしょう。寺の北には、美尾屋の転訛と思しき
          三保谷宿(みほやじゅく)という地名が残っています。
           寺の敷地は五角形の水路に囲まれていて、そのまま旧館の範囲をなぞったものと
          みられているようです。その内側、本堂の西辺と北辺には明確な堀跡があり、かつて
          は本堂伽藍の四周を矩形に巡っていたと推測されます。五角形の敷地全域が館跡
          とすると、鎌倉武士の居館にしてはやや大きすぎるように思われ、個人的には本堂
          周囲の堀が美尾屋氏の館の範囲を示しているものと考えます。
           また、大御堂周辺は墓地となっていて、その縁には櫓台状の土盛り地形も見られ
          ます。ただし、これが城館遺構なのかどうかは、表面観察からは判別できません。

           
 本堂外周の堀跡。
同上。 
 
 大御堂(国重要文化財)。
墓地脇の土塁状土盛り地形。 


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