弥勒寺山城(みろくじさん) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 雑賀衆 | |
遺構 : 不詳 | |
交通 : 和歌山市街よりバス 「秋葉山」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 弥勒寺山には、その名の通りかつて弥勒寺という寺院があった。本願寺鷺森別院の縁起によれば、 天文十九年(1550)、名草郡黒江にあった本願寺道場がこの地に移され、紀州における浄土真宗の 中心地となった。永禄六年(1563)、道場は鷺森へ移され、弥勒寺は廃寺になったものと推測される。 天正五年(1577)三月、織田信長の紀州攻めに対して、雑賀衆の有力豪族である鈴木氏や土橋氏 は、雑賀城を本陣とし、周辺に城砦を多数配置してこれに備えた。弥勒寺山も、このときにはじめて城 として取り立てられたものと考えられる。一説には、本願寺法主顕如が直々に加勢依頼に訪れ、その まま弥勒寺山城ないし雑賀崎城(雑賀城とは別)に匿われたともいわれるが、確証はない。弥勒寺山 には、3千人の兵が立て籠もったと伝わる。 織田軍は、紀三井寺から小雑賀川を渡らんと攻め寄せたが、雑賀勢はあらかじめ川底に槍先や桶、 壺などを沈め、河原には逆茂木などを並べていたため、足を取られている間に鉄砲隊のつるべ撃ちに 遭い、撤退を余儀なくされた。その後、織田軍は小雑賀川上流の中津城から攻め落とす作戦をとり、 徐々に雑賀城へと迫られたため、鈴木・土橋氏らは誓紙を差し出して講和を受け入れた。弥勒寺山城 では、戦闘は行われなかったものと思われる。 天正十三年(1585)にも、羽柴秀吉による紀州攻めが行われたが、弥勒寺山城も雑賀城も史料には 現れないため、天正五年時点で両城とも廃城となったものと推測される。 <手記> 弥勒寺山城は、和歌浦と和歌川(かつての小雑賀川)に臨む独立山上にあり、現在は飽き葉山公園 となっています。山頂へはいくつかルートがあるのですが、西麓の市民プール裏手から登るのが、バス 停からも近く、分かりやすいと思います。登山道は、ぐるぐると遠回りをするので迷わないように注意が 必要です。 山上は広場となっており、遺構らしきものは見受けられません。本陣たる雑賀城址にも遺構はなく、 弥勒寺山城は天正五年の紀州攻めにおける臨時の砦でしょうから、城としての造作はほとんどなされ なかったものと推測されます。あったとしても、それは弥勒寺境内の流用でしょう。広場は、上下2段と なっていますが、あるいは弥勒寺の名残かもしれません。また、下段の一画に弥勒寺山の説明板が あるのですが(ここに、城についてもわずかに触れられており、弥勒寺山城を示す唯一のものです)、 その裏手には巨大な土塁状に山頂部が横たわっています。これも、土塁だの詰曲輪だのというよりも、 寺社仏閣によくある「削り残し」だと思われます。 唯一引っかかるのが、その山頂部のさらに裏手に帯曲輪状のテラスがあり、アスレチック的な遊具が 並んでいます。残念ながら、その半分ほどには黄色いテープが貼られ、いまのところ使用不可となって います。わざわざ遊具を並べるために、このような場所に細い平場を工事するようには思えないので、 あるいは実際に鉄砲隊を並べるための帯曲輪が設けられていたのかもしれません。 |
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弥勒寺山遠望。 | |
山頂広場下段から上段を望む。 画面奥は展望台ですが、木立が邪魔で登っても眺望は利きません。 |
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広場下段のようす。 松林に埋もれているのが山頂部分。 中央奥に小さく見えるのが説明板。 |
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山頂部分裏手の帯曲輪状の平場。 |