雑賀城(さいか)
 別称  : 妙見山城
 分類  : 平山城
 築城者: 鈴木佐太夫
 遺構  : 不詳
 交通  : 和歌山市街よりバス
       「和歌浦口」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           雑賀衆の有力者で、十ヶ郷の領主鈴木佐太夫によって築かれたとされる。佐太夫は鈴木孫一
          (雑賀孫市)の父とされるが、佐太夫・孫一父子が鈴木氏の系譜のうち誰を指すのかは、はっきり
          していない。一般には、佐太夫の諱は重意、孫一は重秀とされるが、孫一(孫市)は鈴木氏当主
          代々の名乗りとみられ、重意自身や重秀の弟(子とも)重朝も、同じ通称を用いたともいわれる。
          したがって築城年代も詳らかでない。『日本城郭大系』によれば、城の東に侍屋敷、西に城下町
          を置いていたとされる。
           元亀元年(1570)の石山合戦で、孫一ら雑賀衆の部隊が本願寺側の加勢として石山本願寺
          入った。雑賀衆の鉄砲隊は織田軍を大いに苦しめ、信長は先に紀北の制圧を図った。天正五年
          (1577)、信長は大軍を率いて紀州へ侵攻し、紀ノ川北岸の十ヶ郷にある鈴木氏の居城平井城
          を攻略した。雑賀衆のうち、鈴木氏らなおも抵抗する勢力は雑賀城へ集結し、弥勒寺山城など
          多数の城砦を設けて防御線を布いた。雑賀衆の火砲線を前にやはり織田軍は攻めあぐねたが、
          戦線の膠着により雑賀勢も疲弊したため、孫一らは誓紙を差し出して講和が成立した。ちなみに
          このとき、本願寺法主顕如が雑賀衆に加勢を依頼しに訪れ、孫一らは顕如を弥勒寺山に匿った
          ともいわれるが、確証はない。
           しかし、わずか半年後の同年七月、孫一らは再び挙兵した。このとき彼らが攻めたのは、先の
          織田軍の侵攻に際して寝返った近隣土豪たちであった。とくに、真言宗根来寺との結びつきの
          強い宮郷攻めに労力を費やしており、信長に対する反乱という以上に雑賀衆内の抗争といった
          面が大きく表れていた。
           天正八年(1580)、顕如は信長との和議に応じ、石山本願寺を退去して紀ノ川河口の鷺森御坊
          へと移った。孫一はこれを機に信長に接近しようと考え、これまでともに戦った、同じく雑賀衆の
          有力者である土橋守重と対立した。同十年(1582)、孫一は守重を暗殺し、雑賀衆内の主導権を
          握った。しかし、同年中に本能寺の変が起こると、孫一は雑賀を出奔し、織田信張の岸和田城
          逃れた。紀州では、土橋派による巻き返しに遭い、鈴木氏らは大打撃を受けた。このとき雑賀城
          で戦闘があったかは定かでない。
           天正十三年(1585)三月、羽柴秀吉による紀州攻めが行われたが、このとき孫一は秀吉方の
          鉄砲頭として名がみえる。秀吉軍は、根来寺を皮切りにほとんど難なく紀北を制圧した。雑賀城
          で攻防戦があったのか、そもそもこのときまで雑賀城が存続していたのか、詳細は不明である。
          戦後、鈴木佐太夫は粉河で殺害されたとされる。あるいは、本能寺の変を境に鈴木氏の内部も
          分裂したものとも考えられる。


       <手記>
           雑賀城は、景勝和歌浦に連なる海岸性の小丘の1つに築かれていたとされています。東西に
          細長い丘で、頂上にあたる南東端には、山麓にある養珠寺の妙見堂が建っています。妙見堂の
          建立は万治三年(1659)のことだそうです。普通に考えればここが本丸だと思われるのですが、
          伝承も遺構もみられないので、なんともいえません。
           妙見堂の北西に細長く伸びる尾根筋は「千畳敷」と呼ばれ、唯一城内であることがはっきりと
          示されているところです。とはいえ、こちらもやはり曲輪といえるほどの整地はなされておらず、
          逆に千畳敷の名称が残っていなければ、誰もここが城跡だとは思わないでしょう。妙見堂側の
          一画に櫓台状の高まりがありますが、城の遺構かどうかは判別できません。また、妙見堂との
          間に1か所竪堀状になっているところがあるのですが、すぐ脇に、寺のものなのか後世に作られ
          たと思われる石塀があり、これに伴うものである可能性が高そうです。
           妙見堂から南へ斜面を下ると、土橋状の細尾根の先に削平された小区画があります。『大系』
          などの諸資料では、こぞって遺構は見られられないと書かれていますが、この区画が近世以降
          に作られたものでなければ、雑賀城最南端の曲輪跡ではないかと思われます。この区画の土橋
          側付け根には、西麓へと下りる道があります。土橋脇で岩盤を削って階段となっているあたり、
          後世の妙見堂建設に際してのもののようにも思われますが、道自体は西麓からの登城路とも
          考えられます。
           城内に碑や説明板などはなく、山麓の津屋公園の案内図に、城跡についてわずかに触れられ
          ているのが、雑賀城を示す唯一のものです。
           このように、雑賀城の一番の謎は、城としての遺構がほとんどみられないという点にあります。
          『大系』では、「雑賀党が、城よりも団結を重視した一族であった」という点から、城砦を築く必要
          性が薄かったという説を唱えています。しかし、私はこの考えには疑問です。「団結を重視する」
          ということと「城砦を築くか築かないか」ということは別問題ですし、上記の通り雑賀党は実際の
          ところそれほど団結していたとはいえない集団であったことが明らかとなってきています。
           私は、むしろ雑賀城が明確に登場するのが天正五年の信長侵攻時のみである点に注目して
          います。天正十三年の秀吉侵攻時には、水攻めで有名な太田城が最大の激戦地となっており、
          雑賀城は史料には現れません。したがって、このときにはすでに雑賀城は使われなくなっていた
          と考えるのが妥当ではないかと思われます。
           また、雑賀城が鈴木氏の居城であったとする資料も多く見受けられますが、これも誤りであろう
          と思います。鈴木氏の本貫地は紀ノ川北岸、和泉山脈南麓の平井とされています。平井は孝子
          越えの紀州街道と淡島街道の交差点に近く、生産性も高かったと推測される土地です。対して、
          和歌浦は景勝地かもしれませんが、そんなものは戦国時代の在地領主にとっては何の足しにも
          ならず、当時はかなり海が入り込んでいたでしょうから生産性も低かったでしょう。海港はあった
          かもしれませんが、紀ノ川河口に近い平井に対するアドバンテージとまではいえません。和歌川
          対岸に紀三井寺があるものの、街道からは外れていて、本当に城下町が形成されていたかは、
          眉唾だと思われます。このように、わざわざ平井から居城を移すほどのところかといえば、怪しい
          といわざるを得ません。
           そこで、雑賀城は天正五年の紀州攻めに際して臨時的に設けられた陣城程度のものであった
          と考えると、すっきり説明がつくように思います。すなわち、鈴木氏や土橋氏はともに防御に向か
          ない紀ノ川北岸の本拠を捨てて和歌浦へ移動し、このときに本陣として雑賀城が築かれ、同時に
          周辺に城砦網を布き、紀ノ川と小雑賀川を天然の水濠として、今日の和歌山市街から和歌浦まで
          の地形全体を要害として立て籠ったのではないでしょうか。臨時の指令所であり、和議の成立と
          ともに打ち捨てられたとと考えれば、城跡にさしたる遺構が残っていないのも頷けます。
           雑賀衆といえば、鉄砲隊を駆使し一致団結して信長を苦しめたというイメージが先行しており、
          鈴木氏についても反骨の象徴のように扱われることが多いように思います。ですが、実際の孫一
          は早々に抵抗を諦めたうえに、雑賀を棄てて中央に奔っています。「七万石」を領していたなどと、
          明らかにイメージが膨らみ過ぎた巷説も流れており、雑賀城がその鈴木氏の「居城」であるという
          先入観が、遺構のみられない雑賀城の謎をいたずらに難しくしているように思われてなりません。

           
 雑賀城址近望。
 右手の建物は養珠寺。
妙見堂。 
 妙見堂南の削平地。
削平地付け根の細尾根。土橋か。 
 土橋脇の登山道。
 岩盤が階段状に削られています。
妙見堂の建つ山の山肌。 
 竪堀跡…にはどうも見えません。
千畳敷のようす。 
 千畳敷の一画にある櫓台状の高まり。


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