三谷城(みたに) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 三谷氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR高松駅または琴電高松築港駅から バスに乗り、「川西」下車徒歩20分 |
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<沿革> 大身領主三谷氏の居城跡である。三谷氏は讃岐国造讃岐氏の嫡流である植田氏の庶流で、 植田景保の次男景之が南北朝時代に三谷八郎を称したとされる。三谷城は、永和年間(1375 〜79)に景之の子とみられる景隆が築いたとも伝わるが、確証はない。 永享二年(1430)、三谷弥七景晴は讃岐守護である細川管領家に出仕して、将軍足利義教 に命じられ御所の怪鳥を射落としたことから、これを賞されて兵庫頭に任ぜられたと伝わる。 景晴は詰城として王佐山城を築き、三谷城は里城となった。 文明十一年(1479)、寒川元家が三谷の里城を焼き払い王佐山城へ攻め寄せたが、景晴の 子景久がよく防戦し、寒川勢は多大な犠牲者を出して撤退した。この前後にも、三谷氏は攻め られれば里城の三谷城を出て、王佐山城に籠って迎え撃つ戦法を繰り返した。 天正十年(1582)、長宗我部元親が讃岐へ本格的に侵攻し、由佐城主由佐秀武を降誘して 王佐山城を攻めさせた。長宗我部氏の援兵も多数加わっていたものと推測され、難攻不落を 誇った王佐山城もついに陥落した。景久の孫の景広は長宗我部氏に降伏したと思われるが、 三谷氏および三谷城のその後については定かでない。 <手記> 三郎池の東の台地に三谷景晴・景久父子の墓があり、その付近が三谷城跡とされています。 墓や景晴についての立派な石碑などはあるのですが、城についてはあまり言及がありません。 東から南にかけてごく浅い谷戸となっており、典型的な崖端の館城であったと思われます。 三郎池はもともと三谷池と呼ばれ、満濃太郎・勝間次郎・三谷三郎と称されたことにちなんで いるそうです。池の成立も満濃池並みに古いとするならば、三谷城はその水利を確保するため に築かれたものと推測されます。 |
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三谷景晴・景久父子の墓の石碑。 | |
景晴・景久父子の墓。 | |
城跡南麓から王佐山城跡を望む。 |