王佐山城(おうさやま)
 別称  : 大麻山城
 分類  : 山城
 築城者: 三谷景晴
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR高松駅または琴電高松築港駅から
      バスに乗り、「池田」下車徒歩40分


       <沿革>
           讃岐国造讃岐氏の後裔とされる三谷景晴によって築かれたと伝わる。景晴は通称を弥七と
          いい、讃岐守護である細川管領家に出仕して、永享二年(1430)に将軍足利義教の命により
          御所に現れる怪鳥を射落としたことから、これを賞されて兵庫頭に任ぜられたと伝わる。
           文明二年(1470)、同族の寒川氏が三谷氏を急襲したが、王佐山城に立て籠もって防いだ
          とされ、遅くともこのころには城が築かれていたことになる。同十一年(1479)にも、寒川元家
          が三谷の里城を焼き払い王佐山城へ攻め寄せたが、三谷景久がよく防戦し、寒川勢は多大
          な犠牲者を出して撤退した。永正五年(1507)には勝賀城主香西元定が三谷氏を攻めたが、
          景久はやはり王佐山城に籠ってこれを撃退した。
           天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親が讃岐へ本格的に侵攻し、由佐城主由佐秀武を
          降して王佐山城を攻めさせた。長宗我部氏の援兵も多数加わっていたものと推測され、難攻
          不落を誇った王佐山城はついに陥落した。景久の孫景広は元親に降伏したと思われるが、
          三谷氏および王佐山城のその後については定かでない。


       <手記>
           王佐山城跡のある上佐山(うわさやま)は、讃岐に多い円錐形のポッコリとした独立山で、
          比高は170mほどです。北麓の平和公園墓地駐車場から登山道が整備されています。山頂
          の本丸一帯の樹木が地元有志の方々により伐採されており、360度遮るもののない絶景が
          楽しめることから、城跡ファンというよりハイキング客で大いににぎわっていました。
           城跡目線で登って行くと、注目すべきは木に「七合目」と書かれているところで、そこから
          両サイドに分け入ると畝状竪堀群があります。城域自体もここから始まっているようで、山頂
          まで腰曲輪跡や切岸が連続しています。
           前述のとおり山頂の本丸跡からの眺望は絶佳で、讃岐平野を睥睨し、瀬戸内の島々まで
          見渡せます。他方で、縄張りとしては先の畝状竪堀群を除けば至極単純です。北東側にも
          もう1本尾根があるのですが、こちらは自然地形に近く、曲輪形成がされているのか不鮮明
          でした。
           全体として、三谷氏のような大身領主レベルの兵力で守り、同レベルの兵力を防ぐのには
          適した城であるといえるでしょう。他方で、長宗我部氏レベルの大軍に囲まれ攻め上られて
          しまうと、成す術がないといった感じに思えました。

           
 北東麓から王佐山城跡(上佐山)を望む。
同じく真北から。 
 畝状竪堀群。
同上。 
 同上。
尾根筋の腰曲輪跡。 
 同じく腰曲輪の切岸。
同上。 
 本丸切岸を見上げる。
本丸の出入口。 
当時の虎口かどうかは不明です。 
 本丸から下段の帯曲輪を見下ろす。
本丸のようす。 
 同じく本丸南半のようす。
本丸からの眺望。 
中央右手奥のテーブルマウンテンが屋島。 
その手前が由良山城跡。 
左手奥には勝賀城跡が見えます。 
 本丸南側の石祠。


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