三津屋城(みつや) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 楠木正行か | |
遺構 : なし | |
交通 : 阪急神戸線神崎川駅徒歩10分 | |
<沿革> 現在の光専寺周辺は字「城之前」と呼ばれ、正平年間(1346〜70)に楠木正行によって 築かれたと伝わる。正行は正平二/貞和三年(1347)に挙兵して初陣を飾り、翌年(1348) の四條畷の戦いで討ち死にしているため、事実とすればこの2年間に築かれたことになる。 光専寺は、楠木氏の末裔の末弘治郎左衛門尉が文明五年(1453)に出家して、城跡に 一宇を設けたことに始まると伝えられる。江戸時代中期の『摂陽群談』によれば、永正八年 (1511)に細川澄元軍が攻め落とした細川高国方の中嶋城を三津屋城に比定しているが、 寺伝が正しければ、光専寺は既に建立されている。 また光専寺の山号「三社山」は、城内を含め村内3か所に八幡社があったことにちなみ、 村名も元は「三社(みつやしろ)村」であったものが「三津屋」に縮まったともいわれる。これ が正しければ、正行の築城として、当時の呼び名は三津屋城ではなかった可能性も考え られる。 <手記> 周囲をみっちりと住宅に囲まれた光専寺の門前に、説明板が設置されています。説明板 は、市教委のものと寺の銘板の2種類あるのですが、両者で書かれている年代が異なって います。こういう場合、市教委の方がきちんとしているものと思いがちですが、築城年代を 正行がまだ幼少と思われる延元年間としていたり、その延元の存続期間を誤っていたりと、 正確性に疑問が持たれます。上に挙げた光専寺開基年は銘板に従いましたが、市教委の 説明板では文安五年(1448)となっていました。 光専寺には保育園が併設されていて、開園時間中は山門が締め切られ、境内に入って 参拝することはできません。本堂の前では、園児たちが元気な声を上げていました。 |
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光専寺。 左手に説明板と銘板が見えます。 |
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市教委の説明板。 | |
寺の縁起銘板。 |