堀城(ほり) | |
別称 : 中嶋城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 細川氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : 阪急電鉄十三駅徒歩5分 | |
<沿革> 大正四年(1915)刊行の『西成郡史』には、永禄九年(1566)に細川藤賢が築城したと ある。しかし、享禄四年(1531)の大物崩れや大永七年(1527)の桂川原の戦いに際し 堀城の名がみられるほか、永正八年(1511)の深井の戦いにおいて細川澄元軍が攻め 落とした細川高国方の中嶋城を、堀城に比定する説もあり、16世紀初頭には築かれて いた可能性が高いとみられている。 天文十八年(1549)の江口の戦いに際して、堀城には三好政長に属した細川晴賢が いたが、近隣の柴島城が三好長慶によって攻め落とされたため、開城・撤退した。前出 の藤賢は、晴賢の系図上の従兄弟にあたる(藤賢の父の尹賢は、晴賢の祖父政賢の 養子)。 元亀元年(1570)の野田城・福島城の戦いに際し、堀城は織田方の拠点となった。 同年九月三日には、将軍足利義昭が幕臣でもある藤賢の中嶋城に着陣している。 元亀四年(1573)に義昭が反信長を掲げて決起すると、堀城は義昭に属した。しかし、 同年中に義昭が京を追放され、信長包囲網に加わった松永久秀も降伏すると、堀城は 開城を余儀なくされた。これにより、廃城となったものと推測されている。 <手記> 淀川河口部の戦いにしばしば登場する堀城ですが、その位置については今も判然と していません。また、中嶋城とは同じ城なのか、それとも近隣の別城なのかについても 分かっていません。 明治初期の堀村の地籍図から、中心部は十三の武田薬品工業敷地内が、比定地の 1つとされています。上に図示した阪急神戸線沿いにある武田薬品の通用門脇には、 「堀城跡伝承地」の説明板が掲げられています。 一方、堀城跡周辺の樹木は「堀の森」と呼ばれ、十三市街南西の十三公園にはその 名残と伝えられる巨木があることから、こちらを堀城跡とする説もあります。いずれに せよ、すっかり地形も変わり市街地化した今日では、証拠を得ることは困難でしょう。 |
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武田薬品通用門脇の「堀城跡伝承地」説明板。 | |
説明板前を走る阪急神戸線。 |