大学屋敷(だいがく)
 別称  : 上屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 不明
 遺構  : なし
 交通  : 東急田園都市線溝の口駅
       JR南武線武蔵溝ノ口駅徒歩5分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』に、「村の西にあり 何人の館跡なりや詳らかならず 広さ一町三段許
          或は此所を上屋敷とも呼ぶ」とある。字上屋敷の北には溝口神社があり、その間には牢屋敷と
          呼ばれるところもあったとされる。
           溝口神社周辺が上宿と呼ばれたのに対し、神社の西にある宗隆寺周辺を下宿と呼ぶ。下宿
          周辺には下屋敷や猿屋敷といった小字があったという。
           永禄二年(1559)成立の『小田原衆所領役帳』によれば、海保新左衛門が「稲毛溝之口」に
          22貫文余を知行していたとされる。宗隆寺について、『記稿』では「階方新左衛門宗隆」という
          地頭を開基としているが、『小田原編年録』では海保新左衛門重綱を開基とし、「階方」は後人
          の誤記であるとしている。
           『編年録』では海保氏を千葉氏庶流とし、千葉宗家を簒奪した馬加康胤の弟氏満の後裔に
          あたるとしている。しかし、一般には海保氏は里見氏庶流とされ、里見義実の弟の氏義にはじ
          まるとされる。こちらの海保氏は代々下総千葉氏の重臣を務めたが、後北条氏家臣となった
          海保氏との関係については明らかでない。


       <手記>
           溝ノ口は江戸時代には大山街道の宿場町として栄えました。大学屋敷と呼ばれる場所は、
          この大山街道に面した旧宿場町の一角にあります。中世にも、おそらく街道と集落があったの
          でしょう。溝口神社と宗隆寺は、今も宿場の面影を残すよすがとなっていますが、大学屋敷跡
          は現在駐車場になっています。
           『役帳』に溝ノ口領主が海保新左衛門であるとしっかり明記されており、宗隆寺を開基した
          人物の名もしっかり「新左衛門」と伝わっているのですから、大学屋敷は海保新左衛門ないし
          その縁者の屋敷跡とみるのが妥当なように思います。宗隆寺の寺伝で名字が「階方」となって
          いるのも、『編年録』の指摘するとおり「海保(かいぼ)」が「階方(かいほう)」と誤って記され、
          読みもつられて「はしかた」となってしまったのではないかと推測されます。


           
 大学屋敷跡周辺現況。
溝口神社。 
 宗隆寺。


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