水ヶ江城(みずがえ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 龍造寺康家 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR長崎本線佐賀駅徒歩25分 | |
<沿革> 村中城主龍造寺康家は、文明年間(1469〜87)に家督を二男の家和に譲り、槇村の水ヶ江城に 隠居した。水ヶ江城はこのときに築かれたと推測されている。康家が没すると、康家の五男家兼が 水ヶ江城を受け継ぎ、水ヶ江龍造寺氏を興した。家兼は豪胆かつ武略にすぐれた人物で、本家の 村中龍造寺氏の当主が相次いで早世したこともあり、水ヶ江龍造寺氏は本家を凌ぐ勢いをもつよう になった。家兼の時代には、村中城よりも水ヶ江城の方が、龍造寺一族の本城として発展していた といわれる。 天文三年(1534)五月、水ヶ江城は大内氏の武将陶興房に攻められた。このとき事情は不明だが 家兼は不在で、留守を守る福地家盈と末次家通が撃退に成功した。 天文十四年(1545)、家兼は少弐家臣馬場頼周の謀略により息子2人と孫4人を殺害された。自身 も水ヶ江城を逐われ、筑後の蒲池鑑盛を頼った。同五年(1536)に、少弐資元が大内義隆に敗れて 自害した際に、家兼が資元を十分に援けなかったことで頼周の義憤を買っていたためとされる。だが、 家兼に叛心があったとするには行動が中途半端であることや、資元の死から9年も経っていること から、頼周義憤説には疑問ももたれている。 翌天文十五年(1546)、家兼は鑑盛や鍋島氏の支援を受けて頼周を討ち、龍造寺氏を再興させた。 同年中に、家兼は93歳で大往生し、跡を嫡曾孫の胤信が継いだ。 天文十七年(1548)に胤栄が没すると、胤信が胤栄未亡人を娶って本家を継ぐことになった。胤信 は村中城へ移り、水ヶ江城は胤信の従叔父鑑兼が継いだ。胤信の本家相続には不満を抱く家臣が 少なくなく、同二十年(1551)には家臣土橋栄益らが鑑兼を擁立して反乱を起こした。胤信は、この 前年に義隆の偏諱を受けて隆信と名乗っていたが、義隆は大寧寺の変で陶隆房(晴賢)に討たれて いた。鑑兼の名は大友義鑑の偏諱を受けたもので、隆信は親大友派の巻き返しによって追放された 格好となった。2年後の同二十二年(1553)、隆信は再び蒲池氏の支援を受け、栄益を討って村中城 を回復した。鑑兼は若年であったために助命されたが、水ヶ江城は隆信の弟長信に与えられた。 永禄六年(1563)に隆信が多久氏を降すと、長信はその居城梶峰城に移った。鍋島藩が成立し、 佐賀城が藩府となると、藩祖鍋島直茂は長信と相談のうえ、水ヶ江城址に乾享院、玉峰軒、聴松軒、 泰陽軒の4寺を建立したとされる。このことから、水ヶ江城は長信の移転後も、水ヶ江龍造寺氏(後の (後)多久氏)の持ち城であったものと推測される。 <手記> 水ヶ江城は、今日では佐賀城の南側に隣接するような位置にあります。城址碑はありませんが、 自治会館裏の公園内に、大小2つの龍造寺隆信生誕地碑があります。また、光圓寺の説明板に、 寺の縁起とともに水ヶ江城について触れた部分があります。水ヶ江城址に建立された4つの寺院は、 今では乾享院のみが残っています。 『日本城郭大系』によれば、水ヶ江城は中館、本館、東館、西館から成り、西館はさらに2つの館 に分かれていたそうです。このうち、生誕地碑と乾享院は東館に位置し、光圓寺は中館に含まれて いたようです。 遺構は残っていないので、児童公園のなかに立つ異様に巨大な生誕地碑を見上げるのみです。 |
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東館跡に立つ龍造寺隆信生誕地碑(大)。 | |
同(小)。 |