佐賀城(さが)
 別称  : 佐嘉城、村中城、龍造寺城、沈み城
 分類  : 平城
 築城者: 龍造寺季家か
 遺構  : 門、石垣、天守台、堀
 交通  : JR長崎本線佐賀駅徒歩15分


       <沿革>
           佐賀城の前身は、一時は九州を三分する勢いをもった龍造寺氏の居城村中城である。
          龍造寺氏の出自には諸説あるが、一般的には藤原北家流高木氏一族の高木季家を祖と
          することで一致している。季家は平安時代末期に龍造寺村に土着し、龍造寺氏を名乗った
          とされる。一説には、季家の前に藤原秀郷流を称する藤原季喜がすでに龍造寺村に入植
          しており、季家は季喜の養子として入ったといわれる。いずれにしても、龍造寺氏が藤姓で
          あるということには変わりない。
           龍造寺氏がいつごろ城館を築いたかは定かでない。村中城の名は、龍造寺村の中心部
          にあることから付けられたといわれる。ちなみに龍造寺村の名は、実際に龍造寺という寺
          があったことに由来している。『佐賀市史』所収の「村中城之図」には、一の郭内に龍造寺
          が取り込まれていたように描かれている。
           南北朝時代、龍造寺氏はおそらく南朝に属していたと思われ、正平年間(1346〜70)に
          龍造寺家政が九州探題一色範氏に所領を逐われている(範氏は同十年(1355)に九州
          から撤退しているため、それ以前の10年間のこととみられる)。『日本城郭大系』によれば、
          範氏は龍造寺村を今川頼貞(今川頼国の子で九州探題今川了俊の従兄弟か)に預けた
          とされる。『龍造寺文書』によれば、永和二/天授二年(1376)に、龍造寺家是が南朝の
          打ち立てた征西府から龍造寺村を与えられた。この前年のいわゆる「水島の変」により、
          了俊の勢力が一時減退したため、南朝方は佐賀平野周辺を回復することができたものと
          推測される。翌三年(1377)には、龍造寺村の北の嘉瀬川上流で行われた千布・蜷打の
          戦いで、南朝勢力は惨敗して筑紫平野を喪失したため、龍造寺氏はこのころに北朝側に
          転じたものと思われる。
           その後は、守護少弐氏に従ったが、少弐氏が大内氏との争いで勢力を削られていくと、
          龍造寺氏は次第に存在感を高めるようになった。戦国時代初期の武将龍造寺家兼は、
          龍造寺氏中興(再興)の祖といわれる。家兼は龍造寺康家の五男で、分家して水ヶ江
          龍造寺氏を興していた。しかし、家兼自身の資質に加え、本家の村中龍造寺氏の当主が
          相次いで早世したことにより、水ヶ江龍造寺氏は本家をしのぐ勢いをもつようになった。
          家兼の時代には、村中城よりも水ヶ江城の方が、龍造寺一族の本城として発展していた
          といわれる。
           天文十四年(1545)、家兼は少弐家臣馬場頼周の謀略により、息子2人と孫4人を殺害
          された。自身も城を逐われ、筑後の蒲池鑑盛を頼った。背景には、同五年(1536)に少弐
          資元が大内義隆に敗れて自害した際に、家兼が資元を十分に援けなかったため、頼周の
          義憤を買っていたことがあるとされる。ただ、家兼に叛心があったとするには行動が中途
          半端であることや、資元の敗死から9年も経った後の出来事であることから、頼周義憤説
          には疑問ももたれている。
           翌天文十五年(1546)、家兼は蒲池氏や鍋島氏の支援を受けて頼周を討ち、龍造寺氏
          を再興させた。同年中に家兼は93歳で大往生し、跡を曾孫の胤信が継いだ。このころの
          村中龍造寺氏の当主は、家兼の大甥の胤栄であったが、家兼と対立して一時大内氏を
          頼って出奔し、後に義隆の斡旋により肥前守護代として村中城に返り咲いたといわれる。
          しかし、家兼の頼周討ちには村中城にあって参加していたとも、大内氏への出奔は家兼
          の死後のことともいわれ、胤栄の動向についてははっきりしない点が多い。また、胤栄を
          逐ったのは資元の子少弐冬尚ともいわれる。
           天文十七年(1548)に胤栄が没すると、胤信が胤栄未亡人を娶って本家を継ぐことに
          なった。ところが、この相続には不満を抱く家臣が少なくなく、同二十年(1551)には土橋
          栄益を中心とした大規模な反乱が起きた。胤信は、この前年に義隆の偏諱を受けて隆信
          と名乗りを改めていたが、義隆は大寧寺の変で陶隆房(晴賢)に討たれていた。栄益らは
          これを好機とみて大友氏に属し、隆信の従叔父の鑑兼を擁立して隆信を逐った。2年後の
          同二十二年(1553)、隆信は再び蒲池氏の支援を受け、栄益を討って村中城を回復した。
           その後、隆信は旧主少弐氏を逐って東肥前の支配者となったものの、元亀元年(1570)
          には佐賀城に危機が訪れた。隆信の急速な勢力拡大を危険視した大友宗麟(義鎮)が、
          弟の親貞を総大将とする大軍を送り込んだ。隆信に圧迫されていた東肥前の国人たちも
          こぞって大友軍に加わり、その数は6万に達したといわれる。村中城がいつごろ佐賀城と
          呼ばれるようになったのかは詳らかでないが、この戦いでは、おおむね「佐嘉城」と表記
          されている。佐嘉城に籠る龍造寺軍は5千ほどであったとされ、そのままでは落城は時間
          の問題であった。大友軍は八月二十日に総攻撃を行うことを決定し、その前夜に酒宴を
          開いて早くも戦勝の気分に浸っていた。この情報を受けた龍造寺軍は、隆信の義弟鍋島
          信生(後の直茂)を大将とする奇襲隊を組織して今山の大友本陣を急襲したところ、親貞
          を討ち取る大戦果を挙げた(今山の戦い)。大友軍による包囲自体はその後も数か月に
          わたって続いたが、攻めきることができず、講和を結んで撤退した。
           危機を脱した隆信は、表向きは大友氏に臣従する格好をとりながら、着実に肥前国内に
          勢力を伸ばした。天正六年(1578)にはついに肥前を統一し、同年に大友氏が耳川の戦い
          で島津氏に大敗すると、隆信はこれを機として家督を嫡子鎮賢(後の政家)に譲り、自らは
          須古城へ隠居した。
           隆信はなおも実権を握っていたが、天正十二年(1584)の沖田畷の戦いで、島津氏に
          敗れて戦死した。島津軍は勢いに乗って佐嘉城を包囲し、隆信の首の返還を申し出たが、
          政家と直茂はこれを拒否して籠城戦の構えをとった。しかし、島津軍の勢いを止めることは
          できず、降伏を余儀なくされた。直茂は、政家の輔弼のために柳川城から佐嘉城に移り、
          翌年には佐嘉城の拡張を行った。このことから、龍造寺氏は面従腹背で島津氏に従って
          いたものと推測される。
           直茂および政家は豊臣秀吉に逸早く水面下で協力し、天正十五年(1587)の九州平定
          により肥前32万石を安堵された。秀吉は、政家以上に直茂のはたらきを評価し、鍋島家を
          独立大名とはしなかったものの別個に所領を安堵し、直茂は後に蓮池城を居城とした。
          同十八年(1590)、政家は秀吉の命によって、わずか5歳の子高房に家督を譲った。当然
          政務がとれるはずもなく、ますます直茂の家中支配が進んだ。しかし、『慶長肥前国絵図』
          には佐賀城を指して「龍造寺城」とあり、表向きは鍋島氏は竜造寺家臣であり続けた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにおいても直茂・勝茂父子が主体的に活動し、大名
          龍造寺家の形骸化は確実なものとなったが、それでも政家・高房父子の存命中は佐賀城
          を龍造寺氏の居城、蓮池城を鍋島氏の居城として、鍋島父子は両城を改修している。
           慶長十二年(1607)に高房と政家が相次いで死去すると、鍋島家は龍造寺一門重鎮の
          支持もあり、正式に佐賀藩主家として江戸幕府に認められた。ただし、直茂は龍造寺家へ
          の遠慮から初代藩主とはならず、藩祖と呼ばれた。佐賀城は藩府としていよいよ改修が
          進められ、同十三年(1608)ないし十六年(1611)には層塔式4層5階の天守が完成した。
          元和元年(1615)に一国一城令が発せられると蓮池城は廃城となり、その建材は佐賀城
          拡充に転用された。
           天守と本丸御殿は享保十一年(1726)の火災によって焼失し、その後ながらく再建され
          なかったが、天保九年(1838)に鍋島直正(閑叟)によって本丸御殿が再築された。佐賀
          藩は、鍋島氏11代を数えて明治維新を迎えた。明治七年(1874)の佐賀の乱では、江藤
          新平ら反政府軍によって城が一時占拠された。このときの攻防で、佐賀城の建物は鯱の
          門と本丸御殿の大広間、御居の間を残して焼失した。

          
       <手記>
           佐賀城は、明治維新で重要な役割を担った肥前藩35万石の主府ですが、その割には
          石垣が本丸の西と北辺にしか用いられていないなど、構造はかなりシンプルです。本丸・
          二の丸以外は、龍造寺氏時代のままなのではないかとすら感じさせます。
           佐賀城のシンボルといえば、本丸表門である鯱の門と付属の続櫓でしょう。「鯱」の門
          の名から推察されるとおり、おそらく天守焼失後の佐賀城においてもっとも豪壮な建造物
          として、また城内唯一の建造物遺構として長らく親しまれてきました。平成十六年(2004)
          には、移築されていた御居の間が再び本丸に戻され、本丸御殿の一部が復元されました。
          今では鯱の門以上の佐賀城のスポットとなっているようです。復元面積はかなりのものだ
          そうですが、それでもやはり一部は一部なので、まわりを一周するとなんとも寒々しい感じ
          も覚えます。
           御殿復元に並行して城内の整備を進めているようで、石垣や二の丸堀などが復元され
          つつあります。佐賀城の特徴でもある深い水濠とともに、城の景観が少しずつ蘇っていく
          ことが期待されます。訪れてみて意外だったのは、佐賀城には結構長い期間天守が存在
          したということです。小倉城天守を参考とした4層5階の層塔式だったということで、小倉城
          天守が破風コテコテの望楼式天守として復興されてしまった今日、佐賀城天守を復元する
          というのも一考かなとも思いました。ただし、佐賀城天守と現存する本丸御殿御居の間は
          時系列上併存していたことがないので、実現は困難でしょうが。
           別称の沈み城とは、土造りの佐賀城が土塁の上に植えられた松並木に埋もれて、天守
          以外は沈んで見えることから付けられたとも、戦時には水を溜めて城を孤立させることが
          できたからともいわれています。

           
 鯱の門と続櫓。
復元本丸御殿。 
 本丸南西櫓台石垣上から本丸御殿を望む。
 往時は手前の芝生一面に御殿が詰まっていました。
本丸西門跡。 
中央の舗装路に黒く張り出している部分まで右手の石垣が延びていました。 
 
 本丸西辺の石垣。
 空き地となっている部分は本丸堀跡。
天守台石垣。 
 二の丸東堀。
 建物を移転させ、浚渫し直しているそうです。
佐賀城南方の水濠。 


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